百目鬼恭三郎「乱読すれば良書に当たる」

百目鬼恭三郎という人は、丸谷才一新潟高校から東大英文科までの同級生で、朝日新聞の記者として、丸谷の『裏声で歌へ君が代』が出た時一面で宣伝したのを江藤淳に非難されたのと、その名前の恐ろしげなので有名だが、「風」という変名で書いた『風の書評』の正続を前に読んで、なかなか博識な人だと感心したことがある。

 だが、生前最後の著書となった「乱読すれば良書に当たる」は、『旅』や『Voice』などに載せた古典紹介エッセイを集めたものだが、読んでいて、博識ぶりには驚くが、この人とは合わないなあ、とつくづく感じた。

 たとえば、シェイクスピアが面白くない、面白かったのはソネッツだけだとか無茶なことを言うのである。百目鬼は『捜神記』とか『耳袋』に出てくる怪談・奇談が好きで、『奇談の時代』という著書でエッセイストクラブ賞をとっているのだが、私も怪談・奇談は嫌いではないが、シェイクスピアのほうが好きなので、こういう人とは合わないなあと思う。第一この人は、英語で書かれたものは英語でしか読まないらしく、英文科の卒論はウィルキー・コリンズの『月長石』という探偵小説で書いたが、このバカ長い小説も英語で読み、参考のためディケンズの『荒涼館』も、当時翻訳がなかったから苦労して英語で読んだとか言うのである。『荒涼館』といえば、文庫本で四冊になる大長編で、日本語でさえ読み通せない人がいるくらいなのに、卒論の準備のために英語で読み通した、とまで学力自慢をされては、そんなに学力があるなら大学院へ行けばよかったでしょう、と言いたくなる。

 あと『旅』に連載したのは全部古典紀行文で、私は紀行文というのはあまり興味がない。しかも百目鬼は『とはずがたり』の、愛欲部分はあまり面白くなくて紀行文のところがいい、というので、これはたまらんと思う。あと、明治生まれかと思うくらい漢文が好きで、日本の古典和歌やら『明月記』やら、むやみと高踏的なものを持ち出すので、何だか学識自慢でもされているようなのである。絶対この人は、借金してでも大学院へ行って学者になれば良かったので、新聞記者などになったのが間違いだと思わせる本である。ただし大学教員になっても、この激しい性格ではどこかで大喧嘩をやらかしていただろうが・・・。(この本には変なところもあって、綿谷雪の『日本武芸小伝』を誉めていて、宮本武蔵の父・新免無二斎が「名著とされる山田次朗吉の『日本剣道史』の中で…天正元年に死んでいるはずの足利義昭に召されて」と書いてある誤りも指摘している、とあるが、足利義昭天正元年に死んでなどいない。足利幕府が滅亡した時に死んだとでも思ったのか。あと『嬉遊笑覧』の悪口を言うのはいいが、編者を「喜多村節信」と二度も誤記している(正しくは信節))

 しかしこんな高踏趣味の古典案内が1985年に

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新潮社から出たというのは、時代を感じさせる。

小谷野敦

編集者特権と文学賞

文学関係の有力出版社の編集者だった人が、引退とかして本を書くと、お世話になった作家たちが選考委員をする文学賞を貰えるという現象があるのはよく知られている。人物別に一覧にしてみた。

 

半藤一利(1930-2021)文藝春秋漱石先生ぞな、もし」新田次郎賞(1993)「ノモンハンの夏」山本七平賞(98)、「昭和史」毎日出版文化賞(2006)菊池寛賞(2015)

高田宏(1932-2015)(エッソスタンダード「エナジー対話」)「言葉の海へ」大佛次郎賞(1978)「木に会う」読売文学賞(90)

宮脇俊三(1926-2003)中央公論社「殺意の風景」泉鏡花賞(1985)菊池寛賞(99)
石和鷹(1933-97)(「すばる」編集長)「野分酒場」泉鏡花賞(89)「クルー」芸術選奨(95)「地獄は一定すみかぞかし」伊藤整文学賞(97)、
大久保房男(1921-2014)「群像」編集長「海のまつりごと」芸術選奨新人賞(92)
前田速夫(1944- )「新潮」編集長『余多歩き菊池山哉の人と学問』読売文学賞(2005)
松家仁之(1958- )「考える人」編集長「火山のふもとで」読売文学賞(2013)「光の犬」芸術選奨河合隼雄物語賞(2013)
湯川豊(1938- )「文學界」編集長「須賀敦子を読む」読売文学賞(2010)
平山周吉(1952- )「文學界」「諸君!」編集長「江藤淳は甦える」小林秀雄賞(2019)「満洲国グランドホテル」司馬遼太郎賞(2022)「小津安二郎大佛次郎賞(2023)
尾崎真理子(1959- )読売新聞記者『ひみつの王国 評伝石井桃子芸術選奨新田次郎文学賞(2015)「大江健三郎の「義」」読売文学賞(2022)

 

 どういうわけか、芸術選奨読売文学賞がやたら多いではないか。

 差し障りのない物故者で言うと、石和鷹はものすごく小説が下手で、編集者でなかったらこれらのどの賞もとれなかったろう。大久保房男もそれに近い。高田宏は割と評判はいいが、「言葉の海へ」なんて、薄いし、普通なら重厚なものがもらう大佛次郎賞なんかとれるものではない。

 そういう事例から見ると、「江藤淳は甦える」は細かいこと、江藤淳の恥辱ともいえることまで調べぬいて書いた立派なもので、編集者特権ではない感じすらする。もっともそのあと続けて賞取り過ぎである。

 半藤一利などは、もはや編集者特権などとは無縁の、単に元編集者の文筆家だと言うしかあるまい。宮脇俊三は『殺意の風景』が惜しい。

小谷野敦

長野隆のこと

長野隆という文学研究者に、会ったことがある。1989年11月の、国文学研究資料館での国際日本文学研究集会で、懇親会の時に妙に陽気に振る舞っていたが、当時39歳くらいだったろう。

 それから9年して、私は阪大におり、『ユリイカ』の太宰治特集に、「カチカチ山」について書いた。これは小森陽一が、狸くんをやたらバカにしている論文に反論したものである。『ユリイカ』が出てから二、三日して、いきなりこの長野から電話がかかってきて、読んだが小森は本当にそんなバカなことを言ったのか、と言っていた。もっとも私は彼を覚えていて「ああ、お久しぶりです」と言ったら、あちらは覚えていなくて、「えっ」と言っていたが、話したら思い出した。

 だがそれから二年後、長野は49歳で自殺してしまったことを、私はのちに知った。しかし考えてみると、面識がないと思っている私にいきなり電話をかけてくるあたり、自殺の前兆だったんだな、ということが分かる。

小谷野敦

杜遷と宋万は死んだ

これはトム・ストッパードの「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」を下敷きにして「水滸伝」の地味な二人でやってみようとしたが始まってすぐ力尽きたやつ。

 

杜遷と宋万は死んだ
                                 小谷野敦

杜遷:よう、宋万。
宋万:おお、杜遷か、久しぶりだな。
杜遷:久しぶりと言っても、王倫が林冲に切られた時以来ってわけじゃないよな。
宋万:まあ、そう言うなよ。俺たちの出番、なかったけどな。
杜遷:しかしあの時は、王倫体制が否定されたから、俺たちも粛清されるのかと思って怯えていたぜ。
宋万:気持ちは分かる。
杜遷:本当は朱貴も昔からいるんだけど、あいつは出店やってたせいか、特別扱いだったよな。弟の朱富まで出て来たし。
宋万:そうだよなあ。俺のあだ名は雲裏金剛だが、お前は何だっけ。
杜遷:摸着天だよ、忘れたのかよ。
宋万:ああそうだそうだ、忘れていたよ。
杜遷:ひどいね。
宋万:しかしそもそも、王倫の友達だったのはお前のほうじゃなかったか。
杜遷:そういうことになってるね。一緒に科挙に落ちて山賊になった、という、別に悪徳役人と対決したとか、そういうあとから来たやつらみたいな正義の人の属性なしだよ、俺は。
宋万:じゃあお前のほうこそ、王倫と一緒に殺されても文句言えなかったじゃないか。
杜遷:そうだろうね。でもあのあとは俺もお前も、林冲とか晁蓋とかにいろいろ気を遣って大変だった、って点では同じだろう。
宋万:まあな。席次は二番目と三番目だったのが、どんどん下がったからな。
杜遷:俺は一回だけ活躍したことがある。
宋万:ああ、あれか。呼延灼が攻めてきた時、副将の韓滔を赤髪鬼の劉唐と一緒に捕まえた時か。
杜遷:そうだ。
宋万:あれはまあ、誰でも良かったって感じはあったな。
杜遷:(むっとして)お前なんかそれ程度の活躍もないだろうが。
宋万:そうだなあ。宋江と同じ姓なんだがなあ。
杜遷:そうだよ、宋江が入ってきた時、お前と同じだなと思ったから、あとで首領になった時は、何かお前に出世でもあるんじゃないかとひやひやしたぜ。
宋万:昔の仲間の出世をひやひやするなよ。
杜遷:同じ姓といえば、最初に出てきた王進って消えちゃったままなんだが、あれ王倫と同じ姓だよな。
宋万:それはちょっと気になる。

アリエル・ドルフマン「死と乙女」

ふと目についたので図書館から借りてきたのが、昨年8月刊行の岩波文庫だが、これは1991年ころ書かれたチリの作家の戯曲で、世界的成功を収め、日本でも上演されたらしい。ウィキペディアでは「アリエル・ドーフマン」として立項されており、1942年生まれだから81歳になる。ピノチェットの軍政の傷跡を、二人の男と一人の女だけの舞台で表現しており、40歳前後の女パウリナは、軍政下で監禁され強姦された経験があり、弁護士ヘラルドはその夫。50歳前後の医師ロベルト・ミランダは軍政の協力者でパウリナを拷問した男らしく、民政回復後に先の二人がロベルトを拉致監禁して拷問するという筋立てである。題名はシューベルト弦楽四重奏曲を示しており、この音楽がこの劇の換喩になっているか。なおこの作品は1994年に青井陽治訳が劇書房から出ており、当時上演に使われたのはこっちだろう。こちらは英訳からの重訳かもしれないが、文庫版の飯島みどりは解説でこの翻訳には触れていない。

 ロマン・ポランスキーが映画化していて、シガニー・ウィーバーが主演して邦題は「死と処女」だが、今ではDVDも廃盤のようだ。2019年に宮沢りえ段田安則らで上演されたらしい。

 しかし、読んでいて、ちょっとクセのある翻訳を感じた。「からっきり」などというのが出てくるが、これは間違いではなくて「からっきし」のほうが派生語らしいが、この訳者(飯島みどり)は言葉遣いに独特なところがある。またシューベルトの音楽も、上演に際して流すと効果的かもしれないが、それ以上のものではないし、劇自体がそれほどの名作とも思わなかった。最後に、夫婦二人が舞台を観ているという入れ子構造が暗示されて終わる。

 驚いたのは、やたら長大な「訳者解題」で、何だか独特の美文で書かれていて、頭にするっと入ってこない。書き手の自己陶酔ばかりが感じられる。「洗礼名」といきなり出てくるのは、最初に「砕けた月」という題名の小説として構想したのを「死と乙女」という題名にしたことを指すらしいが、いきなりである。途中からハロルド・ピンターとドルフマンの縁について訳者は酔ったように語り続け、「やや周辺にも風呂敷を広げた紹介をお許し願いたい」とくる。「ファンタといえば日本ではオレンジ色の清涼飲料水を思い浮かべる」と書いてあるが、あれはグレープのもあったはず。

小谷野敦

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佐藤実枝「マリヴォー「偽りの打ち明け話」翻訳と試論」

18世紀前半のフランスの代表的喜劇作家マリヴォーの作品の新訳と、詳細な注、そして解説(試論)から成っている。翻訳のほうは、人物のセリフやしぐさに関する細かな注がついており、主人公が真剣に恋しているのか、金目当てなのかが議論になる作品だという。

 しかし、学術論文ならこれでいいのだが、体裁は一般書として出されていて、それだと妙なところが細かすぎる。特に最後の上演史のところは、専門家以外にはかなり無用の長物であろう。それと、当時人気のあった喜劇作家のダンクールというのが名前が出てくるのだが、この作家は翻訳もないし、論文すらないから、ダンクールとマリヴォーがどう違うのか、一般読者にはまったくと言っていいほど分からない。

 著者はあまりにもマリヴォーの「専門家」であり過ぎて、モリエールはちょっと出てくるが、ボーマルシェシェイクスピアといった日本人にもなじみの深い劇作家とどう違うのかといったことを概観していないから、一般書として読むとものすごく偏ったものを読んでいる気がしてしまう。

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橘玲「スピリチュアルズ 「わたし」の謎」

橘玲の遺伝に関する著作が大変面白かったので、これを読んでみたのは、橘がスピリチュアルに関心があるのかと疑問に思って図書館から借りたのだが、これはパーソナリティ心理学の「ビッグファイブ」に対して、橘が考える「ビッグエイト」を解説する心理学の本だった。メスのロブスターが殻とハサミを脱いで求愛する動画というのが見つけられなかったりしたが、顔のよさが性格形成に影響する話はもっと読みたかった。

 しかし、IQとか芸術的才能の話はよく出てきたが、体力とか運動能力も性格形成に影響するんじゃないかと思うのだが、それがほとんど出てこなかったのは不満であった。

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