ボウルズとカミュ

文學界』八月号の最後のページの連載随筆で、松浦寿輝が、二つの西洋の短編が似ているという話をしている。ポール・ボウルズの「遠い挿話」(1945)とカミュの「背教者」(1957)で、前者は四方田犬彦訳『優雅な贈り物』に、後者は窪田啓作訳『追放と王国』の中に入っている。どちらも、北アフリカへ踏み入った西洋人男性が、舌を抜かれるという話だが、ボウルズのほうはそのあと見世物にされるが、カミュのほうはそれ以外にほとんど筋がなく詩的散文で埋まっている。なんとなく、あとから書いたカミュが真似をしたんじゃないかという気がする。カミュの短編は初めて読んだが、退屈だった。

 手塚治虫にもこれに似た作があり、アフリカで先住民に苦い薬を飲まされた日本人男性が、逃げ出しはしたが姿がオランウータンになっていたというものだ。

書評「誰もいない文学館」(西村賢太)週刊読書人(訂正あり)

 西村賢太には、冷たくされた。芥川賞をとったころ、あちらの著作が送られてきたので、お礼のハガキを書いたが、返事はなかった。それからこちらの著作も新宿の住所に送るようになったが、ある時期から宛所不明で戻ってくるようになった。王子に住んでいると噂されたがその住所は知らされなかった。数年後に私の著作が出るのと芥川賞の発表に応じて公開対談を申し込んだが断られた。担当編集者がそのことを私に隠したまま別の対談相手と交渉してしまったため、私が怒って(隠していたことを)対談自体なしになった。急死直前の新庄耕との対談でも新庄が私の名前を出したが、敬っているのかねえ、というあしらいだった。没後、敬して遠ざけていたと人から聞いたが、まあ中卒を気にしている賢太としては私に会うのは何か面倒な感じがしたのだろう。坪内祐三阿部公彦だといいのはなぜかとも思うが、私のいけないのは本心を隠せないところで、本当のことを言えば暴力沙汰にもなる、と思っていたのだろうし、それはそれで正しかったのかもしれない。
 遺作となった『雨滴に続く』は毎回『文學界』で読んで、これは代表作になるだろうと感心していたが、最後はきちんと終わらせることはなかった。私小説を書くのにシノプシスを書くというのも不思議な話だが、野間文芸賞は歿後でもとれるから可能性ありだろう。本当はそちらの書評をしたかったのだが、先約があるとのことでこちらで代用する。『誰もいない文学館』は二〇一五年に『小説現代』に連載したエッセイで、賢太お得意の、過去のマイナーな作家を取り上げて寸評を加えるもので、もちろん藤澤清造から始まり、大河内常平とか朝山蜻一とかに及ぶ。私も大正から昭和にかけての文壇事情は割と知っているほうだが、それでも聞いたことのない作家の名前が賢太からはポンポン出てくるので、その方面ではいっぱしの文学史家だったということになり、もし藤澤清造の伝記が本当に書かれていないのだとしたら実にもったいないことをしたと言うほかはない。また賢太が所属していた同人誌『煉瓦』の主催者だった久鬼高治の履歴も、本書で初めて知ることができた(エンペディアに記しておいた)。
 もともと賢太の読書遍歴は純文学ではなく、中学生時の横溝正史から始まっていて、怪奇推理小説が好きで、土屋隆夫の『泥の文学碑』で田中英光を知り、そこから私小説へのめり込んでいったものだが、私は横溝の土俗的でおどろおどろしい世界が好きではないし、探偵小説も別に愛してはいないから、賢太としてはその点で私を別人種として警戒していたのかもしれない。もっともここに出てくるのはなまじっかな推理小説好きが聞いたこともないような、アンソロジー類にかろうじて入っているといったマイナー作家である。蓮實重彦がマイナーな映画を称賛する時と同じで、賢太が持ち出すマイナー作家というのは、その文章では面白そうに思えるのだが、実際に読むとゲンナリしてしまうことが多く、ここでも大坪砂男の「天狗」が挙げられているが、私は読んだ時に、こんなくだらないものが代表作なのかと索然としたもので、そういう「本当のこと」を言ってしまうところが賢太としてはダメなんだろう。しかも大坪といえば、和田六郎の本名で、谷崎潤一郎が最初の妻を譲ろうとした相手として有名で、それに佐藤春夫が反対した経緯が、『蓼食ふ虫』の冒頭部分に相当するわけだが、賢太はその件を知らないはずはないのにまったく触れていない。この、谷崎だの川端だのといったメジャー作家(文豪)には意地でも触れるものかという頑固さも、私が遠ざけられた理由だろう。近松秋江ですら、賢太からすればメジャー過ぎるらしい。
 賢太は石原慎太郎とは妙に親しく、何度も対談しているが、私は石原にも対談を断られている。そしてまた、芥川賞選考委員として、石原は賢太を推し続けたみたいに言っていたがあれは選評を見れば嘘だと分かるので、石原は実は賢太を大して推してはいなかった。そして石原も作家としては、例外的な『わが人生の時の時』もあるが、ほかは三流以下の作家でしかなく、そのへんが賢太を安心させたのだともいえる。実際には藤澤清造なども、西村賢太よりはるかに質の落ちる作家にほかならず、代表作の『根津権現裏』ですら、本来なら新潮文庫で復刊するほどの作ではない。もっとも現代の現役作家で、谷崎賞などをとっているけれど、まったく面白くない作品というのもあり、それも政治的力学なのだろうが、この本でいえば尾崎一雄という珍しくもメジャーな文化勲章・藝術院会員作家に触れたところで、その政治力に言及している。
 あと賢太は初版本とかサイン本とかいうのを集めたり売り払ったりしているが、私は文学は内容が第一と思っているので初版本とか復刻版とかサイン本とかにはまったく関心がない。私には単純に、人それぞれだなとしか思えないが、もしかすると賢太にはそれも腹立ちの種だったのかもしれない。あと賢太は頑なに「平成」を使い、西暦の併記をしなかったから、私などはいちいち西暦換算しないと分からないが、そのあたりは古書業界の慣習なのか、ないし賢太に保守派ぶる身振りがあったのかとも思える。石原と親しかったのとか、「“3.11”なぞと称し、これを自らの問題として向き合うことを、恰も“文学者”たる己れに課せられた使命でもあるかのように心得、バカみたくムキになっている同業者と云うのも、或いは存在することであろう。」(「朧夜」)とか書いているのもそれかと(後者については私もその「国家総動員」的な姿勢を不快に思う)思うが、どうも世間では賢太の政治思想を上下するのはタブー視されているようだが、今後は出てくるだろう。なお『芝公園六角堂前』は私は評価しないが、その文庫版解説を没にされた勝又浩が『季刊文科』に書いた追悼文は事実上の恨み節で、解説を含め、年長者だからこれくらい書いてもいいだろうという傲慢さがにじみ出ていて、賢太としては人選を誤った部類だなと思った。

伊藤整日記 全八巻  書評   (週刊読書人)

 伊藤整日記が全八巻で完結した。十年ほどの期間だが大変な分量である。伊藤には「太平洋戦争日記」もあるし、日記つけは習慣となっていたようだ。伊藤は川端康成に近かったし、『新・文章読本』も代筆しているから、川端関連の事項を拾うつもりで読んでいたが、これでは既刊の『川端康成詳細年譜』(深澤晴美共編、勉誠出版)もかなり増補する必要があるなと思った。
 最後は一九六九年十一月四日の記述で終わっており、これは死去した十五日の十一日前である。しかし晩年の十年程度とはいえ、伊藤のすさまじい多忙さには読んでいるほうが何ともいえない気持ちになる。はじめは東工大の教授をやり、チャタレイ裁判も抱えた身で、小説を書き、評論を書き、ペンクラブや日本文藝家協会の仕事もしているから、多忙なのは当然だが、大学を辞めてからもほとんど同じ多忙さが続いているように見える。私は川端を調べたから、川端だって多忙だが、それは多忙なりの結果を残しているからいい。だが、伊藤の小説のどれだけが今日読まれているかを考えると、伊藤の多忙さが虚しく思えて仕方がない。『日本文壇史』など、四十代から『群像』に連載しているが、あれは参考文献の記述を時系列に並べかえたもので、インデックスとして使う分には便利だが、伊藤がその仕事をする必要があったかとなると、疑問なのである。伊藤が多忙だということは、仕事が持ち込まれるということであり、金持ちであるということである。『女性に関する十二章』がベストセラーになったあたりから、「伊藤整ブーム」が起き、全集まで売れ、それが死去までほぼ途切れなく続いて、晩年には六十代で藝術院会員にもなっている。つまり伊藤は成功者なのである。だが、今では読まれていない。そこが、吉川英治松本清張や川端が多忙だったのと、伊藤が多忙だったのとの違いであり、私はいつもそのことを考え込む。
 伊藤は没後『発掘』で新潮社の日本文学大賞を受賞するが、それまで、『日本文壇史』では菊池寛賞をとっているが、小説で賞をとったことはなかった。たとえば『火の鳥』はベストセラーになったし、その掲載方法は川端の『雪国』『山の音』と同じ、あちこちの雑誌にばらばらに載せるという形式だった。だが『火の鳥』を、今日誰が名作と呼ぼう。通俗小説に過ぎないではないか。伊藤には初期の『得能五郎の生活と意見』や『若き芸術家の肖像』のような私小説の純文学作品もあり、最後の『氾濫』『変容』『発掘』三部作という、純文学と通俗小説の間を狙ったものもある。伊藤ほど、純文学だけ書いていても生計は成り立たないということを知悉した人もなかったろうと思うのだが、そのために東工大教授をしていたのだから、『日本文壇史』のような労多くして功少ない仕事ではなく、野口冨士男の『徳田秋聲伝』や、中野好夫の『蘆花徳冨健次郎』のような適度にまとまった仕事をすべきではなかったかという気がする。何でも引き受けるから重宝がられて仕事が持ち込まれるのだし、川端の側近としてうまくやった人でもあるのだろう。私はこの日記を読んで、伊藤が藝術院に入ったりして、天皇について別に何も考えていないらしいことに驚いたが、この日記もまた他人が見ることを意識したもので、本心は分からない。考えてみると、伊藤の『火の鳥』や『氾濫』について、批判はあったが、「通俗的」という言葉が使われたことがないような気がするのは不思議なことだ。
 あるいは妻・貞子の精神不安定な様子が繰り返し書かれており、それは伊藤の浮気を懸念しておかしくなっているのだということは、曽根博義の『伝記伊藤整』の、若いころの伊藤の浮気者ぶりを見れば分かるし、その犠牲者の一人として左川ちかがいる。晩年にも、水商売の女と浮気をしようとしていたことは、弟子の堀川潭『伊藤整氏との三十年』を読むと分かる。そのことは、やはり激しく女にもてたロレンスの作品を翻訳していたことと無関係ではないだろう。そのことは、伊藤の小説における恋愛が、「成立している恋愛」であり、通俗性は持つがのちのちまで読まれない運命にあることと無関係ではない。しかし、もともと英文学者であった伊藤は、このころにはまったく英文学からは疎くなっていて、私があっと思ったのは、文壇長者番付を見て、「河村重治郎」という名前を知らないと書いてあったところで、これは研究社の大英和辞典の編纂者で、伊藤整はそれを知らないほどに英文学からは遠ざかっていたのか、と思う。
 最後の二巻くらい、六十歳を過ぎた伊藤は、盛んに自分の体調を気にし、ガンを恐怖している。この日記には出てこないが、伊藤が医者でもある作家に、ガンはどれくらい治るか訊いた文章も記憶にある。だが、それでいてタバコはひっきりなしに喫っているし、今とは違うのか健康診断を受ける様子もなく、読んでいてけうといが、これは内田百閒の日記を読んでいて、百閒がしょっちゅう喘息の発作を起こして苦しみ、「喘息タバコ」なる怪しいものを喫しているのを思い出させる。
 思いがけない人の名前も見出す。磯田光一と富田三樹が「日本読書新聞」からインタビューに来たとあるが、富田三樹は三木卓の本名である。私の師匠だった鶴田欣也も、トロント大学教授として一度会って、トロントへ来てくれるよう頼んで断られている。当時鶴田先生は三十六歳くらいだろう。
 解説は英文学者として後を継いだ次男の伊藤礼だが、その伊藤礼も『狸ビール』からすでに三十年、八十九歳になっているのが茫々たる年月の流れを感じさせる。

著書訂正

川端康成伝」
p70「当時は中学校を四年修了すれば高等学校へ行けたが、康成は五年いて卒業
> している。」→四年卒業で高校へ行けるようになるのは二年あとなので削除。
p83「大正六年三月、茨木中学校を卒業。高校は九月開始だったため、試験は七
> 月だった。教師たちの反対を押し切って川端は一高を志願し、第二志望が三高、第
> 三が鹿児島高等学校だったというが、鹿児島を受けたのかどうか、分からない。」
> p88「一高入試は七月十一日から十四日までで、国語漢文、代数幾何、英語、歴
> 史、その後関西へ帰って三高も受けたようだ。茨木中学からただ一人、成績一位、
> 二位の者が落ちる中、合格したという。」
→一高志望者はそれ以外は受けられないので訂正
 P45「茨木市も、国鉄(現・JR)、阪急、京阪の三つの鉄道が雁行して走るように
> なっている。」
→京阪が走っているのは茨木ではなく枚方市なので削除。

橘家圓喬の辞世と京須偕充

京須偕充の『芝居と寄席と』の最後に、名人といわれた橘家(三遊亭)圓喬の話が出てくる。圓喬の最後について、『文藝俱楽部』の記事を引用している。そこに、苦しい息の下で圓喬が書いた辞世の句が出てくる。「筆持って月と話すや冬の宵」というのだが、京須はこれについて、

「それにしても辞世は凡句である。圓喬の瀕死の肉体は玄冶店の病間にあり、魂はすでに虚空にあって月と対話をしていた、と解釈したいところだが、とてもそうはいかない。高尚を衒った圓喬の句力はこんなものであったのか、それとも弟子が書き誤まったのか、と思うほどである。が、その凡庸がかえってあわれを誘う」

 いや、そんなにぼろくそに言うほどのものか。別に俳人の句ではない、一落語家の辞世にそうまでしつこく言わなくてもいいだろうに、京須という人は自分が俳句が分かるとでも言いたいのか、といくらか憮然とした気持ちにさせられた。

小谷野敦

森銑三の西鶴論

文學界』八月号に、角地幸男がドナルド・キーンについて書いている中に、森銑三西鶴についての仮説に触れたところがあった。しかしこれは直接キーンとは関係せず、キーンと対談した石川淳が訊いたことなのでやや分かりにくい。

 森は図書館勤めの「在野」とされる近世書誌学者で、谷沢永一芳賀徹小堀桂一郎といった反東大国文を標榜する右翼系学者に崇拝されていた。別に森に右翼思想はないので、たまたまではなかろうか。芳賀は平賀源内について調べた人として崇敬していた。

 森の西鶴仮説は、「西鶴西鶴本」(1955)「西鶴本叢考」(1971)などで展開されており、「好色一代男」は西鶴の作だが、それ以外の西鶴作とされるものは、弟子の北条団水らの代作だというものだ。国文学主流はこれを認めなかったが、森の論拠は、「一代男」は文章が違う、という文章美学から来るもので、「一代男」はあまりに文章が難解だったため、以後はやさしくした、ととらえるのが普通で、森は十分に論証ができていない。小西甚一『日本文藝史』も、森の論証に方法的欠陥があると言っていた。私は小堀に直接訊いてみたことがあるが、「西鶴工房」のようなものがあったんじゃないかと言っていた。谷沢などは関西大学出身なので、東大国文とその出身者を憎むこと激しく、冷静に判断しているのかは疑わしかった。

やめろ、女

歌舞伎を観に行って、女の人がかけ声をかけるということも、昔はあった。前の團十郎のひいきらしく「成田屋!」とやっている人がいた。最近は聞かないが単に私が生の歌舞伎へめったに行かなくなったからかもしれない。

 しかし京須偕充『芝居と寄席と』には、恐ろしいことが書いてあった。1968年、前の雀右衛門の襲名披露を国立劇場でやった時、雀右衛門のひいきらしく「京屋!」とかけ声をかける女の人がいて、京須もたびたび遭遇したというのだが、その時、「やめろ、女」という酔漢のような声が続き、三度くらいそれがあったが、係員も止めることはなく、女の人は黙ってしまい、見得が決まってかけ声が輻輳した時、「どうした、女」という声も出ていたという。京須は最後に「私は少しも腹が立たなかった」と書いていて、私は京須という人が嫌いになった。

 確かに、女の歌舞伎のかけ声はやめたほうがいい。だが、赤の他人に「やめろ、女」などと言うのは無礼である。私なら腹を立てる。