「美しくないゆえに美しい女たち」
阿部謹也(1935-2006)という西洋中世史学者に、私はあまり高い評価を与えていない。ロングセラーだという『ハーメルンの笛吹き男』は、あちらの研究を紹介しただけだし、『西洋中世の男と女』『西洋中世の愛と人格』など、当時博士論文のために西洋中世のことも勉強していた私からすると、特に新しいことが書いてあるとは思えなかった。阿部は「世間」ということを言っていて、日本社会は「世間」が強く、西洋のような自立した個人が育っていないということを、ある時期から言うようになっていたが、「中世ブーム」の中で併称された網野善彦が、天皇制批判者であったのに対し、阿部は天皇制を認めているようで、いつも歯切れの悪さを感じていた。私は西洋には、古代ローマ以来の共和主義の伝統があり、ロックやクロムウェル、ルソーやロベスピエールのような王制否定につながる思想があるという点で、日本は遅れているとは考えるのだが、阿部はそういう風には考えなかったようである。
だが、当時阿部の著作を読んでいて、「日本には「世間」がある、西洋にはない」という単純な言い方はしていないと感じた。もししていたら『日本文化論のインチキ』で徹底批判していただろうが、さすがにそこは学者だけあって慎重ではあった。
むしろ、阿部の歿後になって、鴻上尚史などが、日本には世間があるが西洋にはないみたいな破天荒なことを言うようになり、日本文藝家協会のニュースレターにまで、事務局が書いた「西洋には世間がないので」などという噴飯ものの文章が載っていて、学問的裏付けのないことを書かないでくれとメールしたのだが、なぜか返事はなかった。
こういう変な「遺産」を残してしまったところは、阿部の罪だったろうと思う。特に阿部は、では東アジアはどうなのかということをてんで考えておらず、夏目漱石とか自分が知っている近代の日本人などを中心にした書きぶりが、学者というより評論家風に感じられた。まあ、そのほうが世間での受けはいいわけだ。土居健郎も似た書きぶりだったが、李御寧に批判されて少し趣旨を変えたら、何を言っているんだか分からなくなってしまった。
(小谷野敦)
尾崎翠のような昔の作家を掘り出すと
しかし私にも、バッハを忘れていた当
多くの家族を抱えたバッハが、ザクセ
岸田理生という、2003年に57歳で死んだ女性の劇作家がいる。この時、岸田の思い出を書いた人がいて、それは男の劇作家か俳優だったと思うのだが、十数年前に演劇フェスティバルみたいなのがあり、終わってから、みなで雑魚寝しようという提案が出たら、岸田理生が「川村ツヨシもいるし」と言って怖がって、「ツヨシじゃなくてタケシ」と言ったとかいう話で、そのエッセイの書き手は、岸田のことを、やっぱりこういうところで普通じゃないところがあるんだなあと書いていた。
いや、雑魚寝するといったら女の人は普通怖がるだろうと当時私は思ったので、不思議なことを書く人だと思ったのだが、考えたら、こういうところは普通の女の人なんだなあ、と書くと何だか変なような気がして逆に書いてしまったのだろう。
そして20年前の演劇界というのは、それで岸田理生が強姦されてもおかしくない雰囲気があったような気はするのである。
こないだNHKで少年ドラマの「蜃気楼博士」を復活放送していたので観たのだが、これは1978年の1月、私が中学三年の時だ。主人公は中学生の男子で、それとむやみと仲のいい女子がいて、あれじゃつきあってるみたいだと思った。河合雅代という多分名古屋の子役で、メガネをかけていて不美人なんではじめ驚いたが、ずっと観ているとだんだんよく思えてきたのは、背がすらりとして声がいいからであったらしい。
私は割と声に引きずられることがあり、六代目中村歌右衛門なんか、声が悪いから全然いい女方だとは思えなかったのも、「ウルトラセブン」のアンヌ隊員が美しいとも思わなかったのも、悪声だったからであろう。(この二人はタバコのせいもあり)
(雑誌では小島一朗の名前が削除されている)
インベカヲリ★は、写真家である。募集に応じて来た女性たちの、ちょっと不気味な感じの半ヌード的な写真を撮っており、『やっぱ月帰るわ、私』や『理想の猫じゃない』といった写真集を出し、木村伊兵衛賞候補になり、ニコンサロンで伊奈信男賞も受賞しているが、その一方人物ルポルタージュも執筆し、二〇一三年に私は共著『ノーモア立川明日香』の書評をしている。さらに昨年は、新幹線内で無差別殺人を行い無期懲役になった小島一朗に取材して『家族不適応殺』を上梓し、大宅壮一ノンフィクション賞の候補になった。(講談社ノンフィクション賞も候補になったが選考会は七月)写真が本業なのになぜこんなに文章がうまいんだろうと思ったら、子供時代から大量のノートに思うことを書きつけ続けてきたというから、なるほどと納得した。
この本は、『家族不適応殺』の関連書として出たものと同時に出たエッセイ集で、おおむね女性論である。冒頭のエッセイで、女性は周囲に合わせて擬態しているというこの本の主潮音ともなるエッセイが出てくる。
私は大学院生のころ、東大の女子院生から、子供のころ作文を書く時は、どう書けば大人に受けるか、こういうところで泣かせるということを分かって書いていたと言われてちょっと驚いたもので、女の優等生ってすごいなあと思ったものだが、大人になってからもその能力は発揮されて、大学でも会社でも、筆記試験をやると、女のほうが、自分が書きたいことではなく相手が求めていることを察知して書くから、実は上位は女ば
かりで、そのため企業などでは男にゲタをはかせて採用していると聞いたことがある。さる医大で問題になったことだが、私はそれを聞いて、上の意向を察知してそれに迎合する人ばかりでは良くないから、そういう措置も必要なんじゃないかと思った。そうなると筆記試験で成績のいい女を落とすことに合理性があることになり、何がいいことなのか分からなくなる。
とはいえ、インベの考え方はフェミニズムに影響を受けつつ、正義に向かって突っ走るとか、最近ネット上でよくある、正義を吠えたてるようなこともなく、適当なところでストップして話を転換するような感じである。来世とか前世とかオカルト的なことも書いてあるのでちょっと心配になるが、これも擬態なんだろうか。
女性の写真を撮る時に、インベはさながらインタビューのように相手と話をする。そこから導かれた議論もあるが、男とも話さないといけないのではないか。インベはそれに対して、男は小島一朗を取材した、と言うが、殺人犯で男を代表させるのも困るので、今後は男の話も聞いてほしい。そういえばインベは西村賢太のファンだったが、存命中にそれを言えば西村に追いかけられかねないので黙っていたと、これは私が聞いた話だが、その判断が的確なのはいいとして、そういう要素もあって男とはあまり話ができないのかもしれない。
エッセイの中でも、被写体となった女性の話や、インベ自身が身の周りのものを売った話なども出てくるし、これまでキャリアの上で苦労した話も出てくるが、東京の女子高に通っていた話など、ちょっと不思議な立ち位置の人で、動画などで見る限りごく常識的で落ち着いた人に見えるが、中にはモンスターが住んでいると自分では言っている。
本書を読むと、チラリチラリとインベ自身の生い立ちが出てくる。都内の私立女子高では半分は埼玉県から来ていたとかあり、どこなんだろうと興味をかきたてられるし、両親はどんな人なんだろうと思うがそれも分からない。インベという日本最古の姓の一つを名乗っていることとあいまって、インベさんへの関心ばかりがふくれあがる、不思議な本である。