竹田出雲二代(最終回)

 宝暦二年五月には新作「世話言漢楚軍談(せわことばかんそぐんだん)」を上演した。作者は、竹田外記を名のった出雲、冠子、半二、松洛、中村閨二である。この十月には、京都の北側芝居で、上方で最も人気のある女形となった中村富十郎が「百千鳥娘道成寺」を踊っている。竹本座では、十一月には同じ顔ぶれの作「伊達錦五十四郡」が上演されたが、出雲としてはつくづく、千柳の力の大きかったことを思った。吉田文三郎はいよいよ野心をふくらませ、竹本座から自立したい気勢を見せ、出雲はこれを押さえていた。この年、竹田の一族で死んだ女性がいることが墓誌で確認されているが、出雲の後妻ではないかとされている。
 宝暦三年(一七五三)七月二十一日、竹田小出雲が死んで、のちの三代出雲清宣が三代目小出雲となった。おそらく小出雲はのち竹本座座元の前名であり、出雲の息子が小出雲を名のっていたのが、少年の年ごろで死んでしまい、出雲の弟が三代小出雲になったのではないかとされているが、本当はどうなのか分からない。
 五月五日からは新作「愛護稚名歌勝鬨」を上演した。出雲は竹田外記を名乗って筆頭作者となり、ほかに冠子、閨助、半二、松洛、中邑阿契となっている。これは説経節「愛護若」を中心にしているが、その筋はほとんどなくなり、平将門を討った俵藤太と、征東将軍として途中まで向かった藤原忠文が、藤太と平貞盛が将門を討ったために恩賞に与れず、怨霊となった話をもとに、藤太の子・藤原千晴と、忠文の孫・古曽部蔵人の意趣を背景に、政治を壟断する高階景連を討つまで、複雑な筋が展開する作品である。
 翌宝暦四年には、二月に「菖蒲前操弦(あやめのまえみさおのゆみはり)」、四月に「小袖組貫練門平(こそでぐみかんねらもんべい)」、十月に「小野道風青柳硯」と、同じ顔ぶれで出したが、平安時代前期の謀反ものである「小野道風」が久しぶりに当たりをとり、歌舞伎でも上演された。小野道風と柳と蛙のとりあわせはこの浄瑠璃に始まる。
  十一月に江戸では、二代目松本幸四郎が二代目團十郎だった海老蔵の養子となり、四代目団十郎を襲名した。これは三代目團十郎が早世して空白になった期間をへてのことで、のちに四代目は実子の三代目松本幸四郎に五代目團十郎を譲って自分は幸四郎に戻り、さらに海老蔵を襲名するという経緯をたどっている。団十郎松本幸四郎の名はこのような所以でからみあっており、明治以後、七代目松本幸四郎となったのが、三重県出身で振り付け師の藤間勘右衛門の養子という地位ながら、幸四郎の名を襲名したのにはずいぶんカネがかかったというが、そこから團十郎不在の時代に「勧進帳」の弁慶を一六〇〇回演じたと言われ、長男がのち十一代團十郎になったのもゆえのないことではなかったのである。
 だが、その年の年末から、出雲の体調が優れなくなった。六十四になるが、親爺はもっと高齢まで元気だったが・・・・と思いつつ、腹の具合が悪く、漢方医を呼んだが、腹に手を当てていた医師の顔色が変わったのを、出雲は目にしてしまった。
 座では、旧作を上演していたが、客はそれなりに入っていた。文三郎の人気が高かったからともいえる。
 七月のごく暑い日だったが、出雲はひそかに、息子の小出雲に、松洛と半二を枕元へ呼んだ。
 「多分あたしはもうダメだと思う」
 出雲は、そう言った。小出雲は前から聞いていたが、松洛も半二も、うなだれて聞いていた。
 「この先、竹本座が前の勢いを続けられるとしたら、半二、お前さんが中心になってのことやと思う」
 半二が身を乗り出そうとしたのを出雲は両手でおさえて、
 「もちろん、そないなことは分からん。分からんが今のわっちの見るところではそうや。そやから、松洛さん、ご苦労やけどそのつもりで半二を育ててやっておくれやす」
 松洛と半二が、涙を流し始めた。
 「あとな、ええことばかりやないねや。文三郎のことや」
 二人の顔が引き締まった。小出雲は前から聞いていた。
 「あれは利かん男やなあ。芸人ちゅうのは、時にはああでなけりゃあかんこともあるけど、こっちからしたら話は別ちゃ。どうしてもこれはあかんと思たら、追い出しておくんなはれ」
 松洛が固唾を呑んだ。
 「おい・・・水」
 出雲が妻を呼んで、水を飲ませてもらっているのを潮に、松洛と半二は席を立った。
 翌明暦五年には、松洛、半二らの新作「崇徳院讃岐伝記」を、出雲以下の作者名義で上演したが、すでに出雲はその上演を観ることも難しくなっていた。
 十月十五日からは、やはり出雲を筆頭作者とする新作「平惟茂凱陣紅葉」を上演したが、ついにこれが二代出雲の白鳥の歌となり、出雲は十一月四日、六十五歳で不帰の客となった。
 竹本座の座元は、四代目竹田近江が継いだ。息子の小出雲は二代目の没後四年で、三代目出雲を継いだが、作者として名を残すほどのことはなかった。そのため、一般に竹田出雲といえば、千前軒の初代出雲と、二代目出雲の二人が知られている。
 二代出雲の死後三年で、吉田文三郎は竹本座を追放されることになり、四代目竹田近江は『倒冠雑誌』というパンフレットを出して文三郎に対して竹本座の立場を守ったが、浄瑠璃作者については残った史料が少なく、昭和初年まで、竹田出雲が二代にわたることが知られていなかった。竹本座の再興を担ったのは近松半二だったが、「近江源氏先陣館」「妹背山婦女庭訓」などを当てたころには、竹本座自体が廃座となり、別の興行主の手に移っていた。世間の人気ははっきりと浄瑠璃より歌舞伎のほうに移り、天明三年、半二は最後の作品「伊賀越道中双六」を未完のまま五十八で没し、「伊賀越」は別の者の手で完成されて上演されたが、それが竹本座の残り香の最後の輝きとなった。

竹田出雲二代(第六回)

 延享五年(一七四八)七月十二日、桃園天皇の即位により寛延改元され、その八月十四日から、竹本座で「仮名手本忠臣蔵」が幕を開けた。始めは大当たりというほどでもなく、その長さに辟易する客もあったようだが、次第に人気が上向いてきた。
 だがその九月に、事件が起こった。九段目で人形を操っていた吉田文三郎が、語りの竹本此太夫に、人形の動きに語りを合わせてくれ、と注文をつけたが、此太夫が嫌がり、二人が衝突して、座元の出雲の調停に任された。出雲は、人気絶頂の文三郎を下ろすことができず、此太夫を休ませて、豊竹座から迎えた竹本大隅を代わりとした。これを不満として、此太夫は、島太夫、百合太夫、友太夫と連袂して退座、ライヴァルの豊竹座へ移籍した。豊竹座から代わって竹本座へ、千賀太夫長門太夫、上総太夫が竹本座に入った。「忠臣蔵騒動」と呼ばれるこの事件で、竹本座の客足には鈍りが出た。
 それでも「忠臣蔵」の人気は高く、十二月には大坂の嵐座で上演され、嵐三十郎が由良之助と勘平を演じた。翌寛延二年二月には江戸の森田座で上演され、山本京四郎が由良之助、五月からは市村座坂東彦三郎が由良之助、六月半ばから残る中村座澤村長十郎が由良之助で、江戸三座がそろって上演することになった。
 当時は著作権の概念がないから、浄瑠璃と歌舞伎の当たり狂言は、このように他座で断りもなく上演されるのであった。そのせいでもあるまいが、「忠臣蔵」は一年は続演せず、寛延二年四月からは、出雲・松洛・千柳の「粟島譜嫁入雛形」を掛けている。これは謡曲「富士太鼓」の流れをくむ富士浅間ものの一つで、享保年間に並木宗輔が豊竹座で書いた「莠伶人吾妻雛形(ふたばれいじんあづまのひながた)」の書き換えであった。七月からは、出雲・松洛・千柳の新作「双蝶蝶曲輪日記」の上演が始まる。「夏祭浪花鑑」に続く男の侠気を描いたもので、相撲とり濡髪の長五郎、捕手の南与兵衛のからみあいが眼目で、翌年歌舞伎で上演され、今もよく上演される。その上演中の七月二十四日、三味線方の長老の、初代鶴沢友次郎が死去した。
 出雲は五十八歳になっており、座の経営に専念するため一時作者から離れ、千柳と松洛二人で「源平布引滝」を書いて、十一月に上演し、上々の当たりをとった。翌寛延三年は旧作の上演が続いたが、千柳が古巣の豊竹座に戻りたいと言い出したため、出雲、松洛は止めたが、意思は固く、ついに最後の置き土産として、千柳・松洛作で「文武世継梅」源頼信・頼親を十一月に上演し、千柳は豊竹座へ戻って宗輔に名を戻した。代わって作者部屋に乗り込んできたのが、人形遣いの吉田文三郎で、吉田冠子と名のって作者に名を連ね、寛延四年二月には、吉田冠子・三好松洛作「恋女房染分手綱」を上演すると、大当たりとなり、八カ月の続演となった。初めて作者に名を連ねて松洛を越えて筆頭作者となるなど、文三郎の才気と我儘勝手さが目につき、千柳が竹本座を離れたのも文三郎が鬱陶しかったからだと分かる。
 その大当たり続演のさなかの六月二十日、将軍職を息子の家重に譲って大御所となっていた八代将軍吉宗が死去した。九月七日には、豊竹座へ移ったばかりの並木宗輔が五十七歳で死んでしまった。竹本座では十月から、「役行者大峰桜」を出したが、ここに作者として加わったのが二十七歳になる近松半二である。近松門左衛門に親炙し、「虚実皮膜」の論を『浪花土産』に書いた儒者・穂積以貫の息子で、本名を成章という。義太夫好きのあまり父のつてで竹本座に入り、私淑する近松の名をもらって近松半二と名のり、のち竹本座の最後の栄光の日々をもたらす浄瑠璃作者になる。「役行者」は、壬申の乱を扱ったもので、天智天皇の死後、その皇子を名のる悪人の大友の皇子が、天智の弟の清見原皇子に打ち負かされる話を、いろいろ家臣の者の浄瑠璃的な逸話で彩ったものである。立作者が竹田外記と名のった出雲で、ほかに竹田文四である。この文四というのは何者か分からない。ほかに松洛、冠子が加わる。半二は序段を書いただけだが、作中には千島之助、初日という恋人同士が、忠義のために自害する場面があり、半二はのちに自作『妹背山婦女貞訓』でこの趣向を繰り返している。その上演中の十月二十七日、吉宗の死や前年の桃園院の死を契機として宝暦と改元された。十二月には豊竹座で、並木宗輔の遺作となった「一谷嫩軍記」が上演され当たりをとった。
  招かれて、初日に出雲と松洛はこれを観に行った。一の谷の合戦が出てくると知った出雲は、
 (あっ)
 と思った。ここでは熊谷次郎直実が平家の公達・敦盛を討つ。観ていると、案の定、それは直実の子供を身替りにしたものだった。松洛が、ちらりと出雲の顔を見たから、出雲もうなずいて見せた。
 子供の身替りは、父の初代出雲が得意とした、浄瑠璃にはよくある趣向だったが、二代出雲はこれを嫌った。千柳の宗輔は、出雲のもとを離れて、思いのまま翼をはばたかせ、子供の身替り劇を残して旅だったのだ。
 「十六年はひと昔」
 という熊谷の述懐を聴いて、出雲はひたすらに泣いた。
 (何が十六年だ、お主は五年しかいなかったやないか)
 という涙である。松洛も同じことを思ってか泣いていた。実に「三大名作」は、並木千柳が竹本座にわずか五年いた間に作られたのであった。 
 宝暦二年五月には新作「世話言漢楚軍談(せわことばかんそぐんだん)」を上演した。作者は、竹田外記を名のった出雲、冠子、半二、松洛、中村閨二である。この十月には、京都の北側芝居で、上方で最も人気のある女形となった中村富十郎が「百千鳥娘道成寺」を踊っている。竹本座では、十一月には同じ顔ぶれの作「伊達錦五十四郡」が上演されたが、出雲としてはつくづく、千柳の力の大きかったことを思った。吉田文三郎はいよいよ野心をふくらませ、竹本座から自立したい気勢を見せ、出雲はこれを押さえていた。この年、竹田の一族で死んだ女性がいることが墓誌で確認されているが、出雲の後妻ではないかとされている。
 宝暦三年(一七五三)七月二十一日、竹田小出雲が死んで、のちの三代出雲清宣が三代目小出雲となった。おそらく小出雲はのち竹本座座元の前名であり、出雲の息子が小出雲を名のっていたのが、少年の年ごろで死んでしまい、出雲の弟が三代小出雲になったのではないかとされているが、本当はどうなのか分からない。
 五月五日からは新作「愛護稚名歌勝鬨」を上演した。出雲は竹田外記を名乗って筆頭作者となり、ほかに冠子、閨助、半二、松洛、中邑阿契となっている。これは説経節「愛護若」を中心にしているが、その筋はほとんどなくなり、平将門を討った俵藤太と、征東将軍として途中まで向かった藤原忠文が、藤太と平貞盛が将門を討ったために恩賞に与れず、怨霊となった話をもとに、藤太の子・藤原千晴と、忠文の孫・古曽部蔵人の意趣を背景に、政治を壟断する高階景連を討つまで、複雑な筋が展開する作品である。

竹田出雲二代(第五回)

 まさに竹本座の黄金時代が訪れた。この機を逃さず、出雲ら三人は「仮名手本忠臣蔵」の製作に取り掛かった。ほぼ五十年前に起きた、赤穂の浅野内匠頭による高家吉良上野介への江戸城内での刃傷と切腹大石内蔵助に率いられた四十七人の浪人による吉良家討ち入りは、日本中の話題となり、幕府は四十七士に切腹を申し付けたが、次の将軍となった家宣は浪士びいきだったし、多くの武士が四十七士を武士の鑑と称えた。
 徳川時代には、関ヶ原合戦以後の同時代の出来事を劇化・小説化することは禁じられていたが、「世界」を変えることで見逃されていた。赤穂事件は、事件直後からそのようにして劇化されていた。はじめは吾妻三八による歌舞伎化「鬼鹿毛無佐志鐙」で、大石は大岸宮内とされ、小栗判官の世界に移された。大坂篠塚庄松座でのことで、豊竹座の紀海音は「鬼鹿毛武蔵鐙」と同じ外題でこれを書き直して上演されている。
 『太平記』の高師直、塩谷判官を最初に用いたのは、宝永五年(一七〇八)京都の亀屋座で上演された歌舞伎「福引閏正月」だとされるが、近松門左衛門はそれより先の宝永三年に、「兼好法師物見車」を書いて初演されている。これは『太平記』の、師直が塩谷判官を討つ話で、その発端は塩谷の妻に懸想した師直が、兼好法師に恋文を代筆させたというところからこの題になっている。しかるに近松はその四年後にその続編として、「碁盤太平記」を書き、塩谷の浪人たちを大星由良之介がたばねて師直の屋敷を襲撃してこれを討つ話としている。なお「兼好法師物見車」では、塩谷の家老は八幡六郎となっており、のち大星と改名する。赤穂浪士の討ち入りは大坂・京都でも話題だったが、幕府として同時代の出来事を脚色するのはご法度だったから、このような形にして、もし咎めを受けても「兼好法師物見車」だけは助かるようにしたと言われる。
 ほかにも、浄瑠璃・歌舞伎の赤穂浪士ものは多いが、大石内蔵助を大岸宮内とするもの、大星由良之介とするものがあり、小栗・横山の世界にするもの、師直・塩谷の世界にするものがあり、塩谷の妻の名を顔世とするものがあった。豊竹座の「忠臣金短冊」は、小栗・横山の世界で、大石は大岸由良之助とする混成形式であった。
 赤穂浪士ものは、浅野内匠頭の七回忌、十四回忌などにブームになっていたが、五十年後が近づいてまたあちこちで上演され、延享三年(一七四六)七月十八日、大坂の中の芝居の市山座で、吾妻三八作の「大矢数四十七本」が上演され、座元の市山助五郎が大岸宮内を演じたといい、延享四年には京都の中村粂太郎座で、澤村宗十郎が次作自演した「大矢数四十七本」が上演されたという。
 『歌舞伎年表』は、明治期に伊原敏郎(青々園)が編纂したものだが、そこに「大矢数四十七本」について、「この狂言を更に竹本座の人形に移して、「仮名手本忠臣蔵」となせしなり」と書いてある。しかし「大矢数四十七本」の台本は残っておらず、伊原が何を根拠にこう書いたのか分からない。渡辺保はこれによってか、「仮名手本忠臣蔵」にオリジナリティ―がないかのごとくに書いているが、疑わしい。
 「仮名手本」のほうの主人公といえるのは、むしろ早野勘平とお軽であろうが、そのモデルとなったのは萱野三平とされている。萱野は浅野家の家臣で、内匠頭の刃傷を早駕篭で赤穂へ知らせた一人だったが、浪人後、郷里の摂津国萱野村へ帰っていて、父から大島家への仕官を命じられて仕え、大島家が吉良家と関係が深かったため板挟みとなって苦しみ、切腹して果てた人物である。
 これをモデルとした早野勘平は、豊竹座の「忠臣金短冊」に登場している。小栗の家を浪人した勘平は、妻・歌木とともに敵の横山を討とうとして失敗し、妻が討たれるが自分は逃れる。さらに大岸(大星)に近づくが疑われて力弥に刺され、苦しい息の下から横山家の絵図面を大岸に渡し、大岸は連判状に血判を押させて、勘平は死んでいく。
 「大矢数四十七本」に「仮名手本」の勘平があったかなかったかは分からない。だが、あったとしたらそのことがどこかに記されているはずで、やはり「仮名手本」の勘平の物語は、オリジナルではあるまいか。
 もう一人、勘平の恋人お軽の兄・寺岡平右衛門がいる。これは史実の寺坂吉右衛門がモデルである。寺坂は足軽身分で、討ち入りには参加したが、吉良を討ったあと、公儀へ届け出るためほかの浪士たちと離れ、そのために切腹組から外れることになり、命存らえて、この「仮名手本忠臣蔵」初演の数年前まで生きていた。
 寺岡平右衛門は、岡平として「碁盤太平記」に登場する。彼は師直方に奉公して情報を探るが、そこから大星方へ送り込まれ、力弥に怪しまれて斬られる。そこで大星に初めて素性を打ち明け、碁盤に石を置いて師直方の軍備を教えて死んでいく。これが「仮名手本忠臣蔵」ではお軽の兄として登場する。
 赤穂浪士の物語は、判官の切腹、城明け渡しまでと、討ち入りの間を何でつなぐか、が成否の鍵を握った。この間をつないだのが、お軽勘平の物語である。そしてこれを考えたのは、並木千柳であろう。
 二代出雲、松洛を前にして、千柳が語る。
 「判官刃傷の時、小姓の早野勘平は腰元のお軽とあいびきをしておりやした。そのため塩谷家を追放されて、山崎街道沿いのお軽の実家に婿入りしておりやす。せやけど塩谷の討ち入りには参加したい。お軽の父親の百姓・與市兵衛は祇園の茶屋にお軽の身を売って五十両の金を作りやす。勘平は浪人の一人・千崎弥五郎・・・これは神崎与五郎ことでんな、これに再会して、仇討の資金を調達するから、仲間に入れてくれるよう話します」
 出雲と松洛は、うんうん、と聞いている。
 「ところは山崎街道、五十両の金を懐に家路を急ぐ与市兵衛の前に現れたのは山賊一人、これ、実は塩谷の家老だった斧九太夫の息子の定九郎でやす」
 「あ、大野九郎兵衛やな」
 出雲が言う。史実において、大石の一味に加わらなかった不忠者として知られるのが大野九郎兵衛で、赤穂の開城後は行方知れずになっている。その息子を、あろうことか山賊にしてしまうのである。
 「与市兵衛を殺して五十両入った財布を奪ったところへ、猟師になった勘平が猪を追ってやってきま。猪のつもりで撃った弾は定九郎に当りま。暗闇をやってきた勘平は、手さぐりで、人の体に触り、驚いて薬はないかと懐中を探りますのや。すると出てきたのが五十両の入った財布。これがあれば浪士の仲間入りができると、勘平は死骸をそのまま、家へ帰ってきますのや」
  出雲、松洛は頷いて聞いている。浄瑠璃にはありがちな展開だ。
 「与市兵衛の家ではその妻おかやとお軽がおります。そこへ、お軽を売った店の女主人と番頭がやってきて、お軽を早う引き渡すよう談判しております。おかやは、与市兵衛がまだ帰らないので待ってくれと言っております。そこへ番頭が、これと同じ縞の財布に五十両入れて渡した、と財布を見せますが、それを見た勘平がぎょっとします。あれこれやりとりのあと、勘平は、途中で与市兵衛に会ったと言い、店の主人らはお軽を駕篭に乗せて連れて行ってしまいます」
 出雲と松洛が、一様に首を傾げた。やや不自然だと思ったからだが、浄瑠璃ではこの程度の不自然はよくある。それでもそのたびに気にしてはいる。
 「お軽が行ってしまったあと、村人数人が、与市兵衛の死骸をかつぎこんできます。おかやはびっくり仰天しますが、そこへ浪士のうち、千崎と原郷右衛門がやってきます。おかやは、勘平に対して、いかに元武家じゃとて、舅が死んだのにちっとも動揺していない、己れが殺したのじゃろ、と詰め寄ります。浪人のうち、一人は怒りだします」
 出雲が、ちょっと首をひねった。
 「そこで勘平が、人々の目を盗んでいきなり腹に刀を突きたてる」
 出雲と松洛が、ははあ、という風に少しのけぞった。
 「それから長台詞で、猪と思って撃ったのが舅だった、と話します。その間に、浪人の一人が与市兵衛の死骸を検めて、これは刀傷や、と言います。そういえばここへ来る途中定九郎が死んでいた、というところから、与市兵衛を殺したんは定九郎で、勘平が撃ったのも定九郎だと分かり、勘平はいまわの際に、浪士たちの血判状に血判を押してこと切れる」
 「ははあ」
 と出雲がうなり、
 「いいでんな、それで、お軽はどうなります」
 「それが次の段、祇園一力の茶屋の段で出てまいります」
 「あ、なるほど、そこで大星の遊蕩となるわけですな」
 「さよう。大星は敵方を欺くため祇園・一力の茶屋で遊蕩に耽っております。敵方に寝返った斧九太夫ーこれが大野九郎兵衛ですなーが、大星を試すためにご主君の命日だというのに蛸を食わせ、大星はいやいやながら食うという趣向です」
 「えげつないもんですな」
 「これはあとで意趣返しがあります。食べ酔うて寝てしもうたふりの大星のところへ三人の浪士が来て性根を確かめようとしますが、大星は寝ていて答えず、三人が呆れて帰ってしまうが、足軽の寺岡平右衛門だけは残ります。これは、討ち入りに参加させてもらいたいのと、妹のお軽に会うためです」
 「あ、寺坂吉右衛門(史実の)の妹がお軽いうことなんやな」
 と松洛が口を入れ、千柳は、さようでおます、と言って先を続ける。
 「そこへ、大星の息子・力弥がやってまいります」
 これまでの「赤穂浪士」ものでも、大石内蔵助の息子で討ち入りに最年少で参加した主税は、大星の息子・力弥としてたびたび登場しており、名前は一貫している。祇園の茶屋では、力弥の色恋が描かれたこともある。
 「力弥の合図で寝たふりをしていた大星が起き上がり、こっそり力弥から文を受け取ります。それを縁側へ出て読んでいると、片側の高い座敷で、酒で盛り潰されて寝ていたお軽が、恋文を読んでいるのだと思い、手鏡に写したものをこっそり読み取ります」
 また、出雲と松洛が首をかしげたが、千柳は、あとで説明しますという目まぜをした。
 「ところが、お軽と大星の目が合ってしまい、大星は梯子を持ってきてお軽を高い部屋から下ろし、ぐじゃぐじゃと話をして、大星が惚れた、見受けしょう、と言います。大星が行ってしまうとお軽は・・・・」
 「ちょっと待った」
 出雲が声をかけた。
 「お軽は父と勘平の死んだのは知らん言うことでっか」
 「そうです。そこが肝どすさかい。さてお軽は喜んで、家に手紙を書こうとします。そこへ入れ替えに戻ってきたのが平右衛門で、お軽と出くわす。けど父と勘平が死んだのは言えない。お軽は平右衛門に、請け出されたと喜びを伝えます。それが大星にだと聞いて、ああ本心放埓、主君の仇を討つ気はないのか、と平右衛門が嗟嘆すると、お軽が、盗み読んだ文の話をして、あるぞえ、と言う。詳しく聞いた平右衛門、大星がお軽を身請けして殺す気でいるのが分かり、お軽を自らの手で切ろうとする。そこで、親与市兵衛と勘平が死んだことを初めて話し、言い含められてお軽も覚悟をすると、奥から大星が出てきて、両人とも心底見えた、と平右衛門に義挙に参加する許しを与え、床下に潜んでいた九太夫を、お軽の手を借りて刺し殺します」
 語る千柳も興奮していたが、聞いていた出雲と松洛も手に汗握ってしまった。山崎での勘平の切腹にもやもやしていたものが、ここでぴったり一つにまとまるのを感じたからだ。大石の遊蕩は何度も描かれているが、これほど鮮やかにふくらませたのは知らない。
 「ちょっと待ってください、これで六段目なんですか」
 と出雲が声をあげた。浄瑠璃は普通五段で完結するが、これではまだまだ完結しない。
 千柳は、
 「そうです、今回は五段で終わらせないつもりです。七段、いや九段になるか」
 赤穂事件ものの集大成として絶後の傑作ができるのだ、ということは、作者たちの了解事になっていた。さらにこの後は、史実の上で浅野内匠頭を後ろから抱き留めた梶川与惣兵衛を「加古川本蔵」として主人公とし、その娘と大星力弥が許嫁だったという話があり、さらに浪士たちに加担した天野屋利平も入れることになっている。段数は、外題の文字数と同じく奇数にすることにして、九段ないしは十一段ということで、出雲、松洛があとを続けることになった。
 結局、第八が「道行旅路の花聟」として景事、第九が、梶川与惣兵衛をモデルとする加古川本蔵の娘が大星力弥の許嫁だという設定から、由良之助が出てきて本蔵が腹を切る「山科閑居」、第十が、天野屋利兵衛をモデルとする天川屋義平が、師直の手下らに屈しない男伊達ぶりを描く「天川屋」、第十一が最後の討ち入りの段ということで、出雲、松洛が手分けして書いた。

竹田出雲二代(第四回)

 翌寛保三年(一七四三)四月には、出雲の単独作として「入鹿大臣皇都諍(いるかだいじんみやこのあらそい)」が上演された。『日本書紀』に題材をとり、独裁者・蘇我入鹿を倒すために中大兄皇子が活躍する話で、入鹿の妹の花橘姫が皇子に恋し、兄を殺すよう恋人から言われるという筋で、のちの近松半二「妹背山婦女貞訓」の先行作となるものである。
 寛保四年(一七四四)は、二月に延享と改元されたが、三月に、松洛・小出雲作の「児源氏道中軍記」を上演最中に、播磨少掾が病気で途中休演し、七月二十五日、五十四歳で不帰の客となった。十一月にその追善興行が行われたが、竹本座は大きな危機に見舞われたのだ。
 並木宗輔は、宗助とも書き、青年時代は備後三原の臨済宗成就寺で修行僧をしていたという。豊竹座にいた田中千柳という作者の弟子だったらしい。豊竹座で立作者をしていたが、寛保二年に豊竹座を退いて歌舞伎作者となっていた。出雲はそれを口説いて、作者として竹本座に入れたのである。
 翌年二月、宗輔は並木千柳と名を変え、千柳、小出雲、小川半平合作で「軍法富士見西行」を書下ろし、板に載せた。木曽義仲西行の逸話を綴り合せたもので、人形遣いとして竹本座の中核にあった吉田文三郎が西行を遣ったという。
 七月には、千柳・松洛・小出雲の合作による「夏祭浪花鑑」が上演され、評判を呼んですぐに歌舞伎化され、現在でも歌舞伎の人気演目となっている。小出雲も松洛も、千柳の才能には眼をみはった。
 九月の末、将軍吉宗は嫡男の家重に将軍職を譲り、大御所となった。
 翌延享三年(一七四六)一月には、「楠昔噺」が初演されたが、これも千柳、小出雲、松洛の合作で、千柳が先導し、『太平記』から楠木正成をとりあげ、幕府方の宇都宮公綱との戦いを脚色し、万里小路藤房と八尾別当顕幸の娘・折鶴姫の悲恋をからめ、顕幸の家臣の老夫婦を出して昔話「桃太郎」にからめ、三段目が「昔噺どんぶりこ」と通称された。
 出雲は病がちで臥せっていたが、そのあと回復して、小出雲、千柳、松洛とともに「楠昔噺」の当った祝いとして天満の川筋に船を浮かべ、太夫人形遣い、三味線などみなで酒宴を催した。
 「次の狂言は何にするかや」
 と小出雲が言うと、松洛が、
 「この次は、かねてから天満宮の一代記の構想を練ってきたので、それに願いま」
 と言い、その筋立てを話した。みなそれでいいと一決し、松洛は二段、三段、四段と続けて親子の別れ場を作りたいと言い、出雲も面白がって、その場で籤を引いて場割を決めることになった。その結果、二段目の道明寺の段が松洛、三段目の桜丸切腹の段が千柳、四段目寺子屋の段が出雲と決まった、という逸話がある。
 「菅原伝授手習鑑」である。それまでの菅公もの浄瑠璃を、近松門左衛門の「天神記」を含めて下敷きとし、大きく広げたものだ。しかしこの逸話が事実かどうかは疑わしい。出雲得意の子供の身替りを書いているからだ。
 「やっぱりや」
 小出雲のつぶやきを、松洛が聞きとがめて、
 「何です?」
 と問い返した。聞いていた千柳が、
 「子供の身替りでっしゃろ」
 と言った。
 松洛は、「ああ」と納得いったようで、
 「ボンは子供の身替り嫌いでしたな」
 と言った。しかしそれが出雲の得意な筋立てなのである。千柳は、
 「わたしかて嫌いです。だから親方がおらん時は使てへん」
 と言い、
 「せやけどせっかくの親方のご恢復なんやから、小出雲さんもまあこらえて」
 「もちろん、こらえるけどな」
 しかし、八月に上演された「菅原伝授手習鑑」は大当たりとなった。特に「寺子屋」と称される子供の身替りの段が評判がよく、
 「ボン、世間は身替りの趣向、好きそうでんな」
 と松洛に言われて、小出雲は腐らざるをえなかった。
 「菅原」は続演され、その間十月には京都の浅尾元五郎座で歌舞伎化された。竹本座での上演は翌年三月まで続いたが、出雲はその間に再び病の床に就いてしまった。
 翌延享四年(一七四七)三月十七日、人形遣いの長老で、文三郎の父である吉田三郎兵衛が死去した。病床にある出雲は葬儀に出席することもできなかった。
 五月の末、出雲はいよいよ弱り、おむら、小出雲らが枕元に詰めきりになったが、六月四日、死去した。生玉の青蓮寺に葬られた。
 竹本座にとって、出雲の死はすでに織り込み済みで、小出雲が二代出雲となり座元となった。ところが、かねて座の実力者をもって任じていた人形遣いの吉田文三郎は、父三郎兵衛も死んだこととて自儘な振る舞いが見かねるほとになり、二代出雲はついに暇を出した。
 だが文三郎は近くで独自に芝居興行をしようとし、幕内からのとりなしもあって、いったんは竹本座に戻った。
そんな騒動をへて、八月には千柳、松洛、出雲作の「傾城枕軍談」が上演された。これは近松の「形成島原蛙合戦」を下敷きにした島原の乱もので、これに真柴久吉という権力者に、元の主君の小田春永の孫を擁した七草四郎が挑戦するという太閤記ものが加わっていた。しかし島原の乱を思わせるものはなく、七草四郎がのち名を島勘左衛門と変えるのが、石田三成の側近・島左近の弟なので、関ヶ原ものの趣向もあった。島勘左衛門が馬に乗ったのを文三郎が出遣いし、そのまま塀を飛び越えるという趣向もあったが、これは当らなかった。何の話だか観客にもよく分からなかったのだろう。竹本座混乱のあおりを食ったともいえる。
 二代出雲は、松洛、千柳とともに次の浄瑠璃の作成に取り掛かった。九郎判官義経が、腰越で兄頼朝に拒絶されてから、奥州平泉で討たれるまでの空白期間を描いたもので、滅びた平家の新中納言知盛、正嫡維盛が生きていたことにして、知盛が正体を見あらわされて碇を体に巻き付けて入水する「渡海屋」、維盛とその奥方、息子を守って釣瓶鮓屋のいがみの権太が改心する「鮓屋」、義経の忠臣佐藤忠信が、静御前を伴って旅をする間、静御前が持つ初音の鼓が、親狐の皮でできているため忠信に化けた子狐が忠信とすり替わり、正体がばれるが、義経が鼓を与える狐忠信の物語などを織り込み、「義経千本桜」と外題を付けた。浄瑠璃や歌舞伎の外題は、当時、三、五、七文字と奇数にすることになっていた。
 「ボン、どないだす、子供の身替り」
 「うーん」
 主な書き手である千柳に訊かれて、二代出雲は、首をひねった。
 「権太の息子が連れてかれるんやから、これは最後首切られるちゅうことやな」
 「はい。けどそこまで描かんちゅうことで」
 「こう、おとうはんの身替り好きから、ちょっと離れた、いうところかいな」
 「さようでおます」
 「ええんやないか」
 先代出雲も、身替りの趣向が古くさいという認識はあったが、観客にはやはりこれを喜ぶ者もあって、そうそう捨てられなかったのである。「義経千本桜」は当たり狂言となった。

竹田出雲二代(第三回)

 翌享保二十年(一七三五)九月には、出雲と文耕堂合作の「甲賀三郎窟物語(いわやものがたり)」が上演された。また十一月には、二代目義太夫が禁裏から上総少掾を受領した。
 翌年二月には、「赤松円心陣幕」が上演されたが、これは、文耕堂と三好松洛の合作で、上総少掾受領の祝儀演目であった。四月に年号が元文と変わり、五月には「敵討襤褸錦(かたきうちつづれのにしき)」、十月には「
猿丸太夫鹿巻筆」の新作が上演されたが、いずれも文耕堂・松洛合作で、四十代後半になる三好松洛が竹本座の重要な作者の一人となっている。
 元文二年(一七三七)、一月に二代目義太夫は播磨少掾を再受領し、義太夫節における第一人者と認められ、竹本座を支える義太夫語りの地位は揺るがぬものとなった。文耕堂と三好松洛の合作で「御所桜堀川夜討」を上演した。『平家物語』『義経記』に取材し、頼朝と仲が悪くなった義経が、土佐坊昌俊の襲撃を受ける話を元にしている。中では弁慶と女人との邂逅を描いた「弁慶上使」が今も歌舞伎でよく上演される。
 出雲は、千前軒という俳号を用いるようになり、元文三年には文耕堂との合作で「小栗判官車街道」を出した。小栗判官の伝説をもとにしたものである。息子の清定は、小出雲と名のって作者部屋に加わった。
 元文四年(一七三九)四月には、千前軒、小出雲親子に、文耕堂と松洛、浅田可啓の合作で「ひらかな盛衰記」を出した。これは『平家物語』の異本のひとつ『源平盛衰記』に取材したもので、梶原源太の恋、戦死した木曽義仲の遺児と遺臣に、初代出雲得意の子供の身替りがあり、源太の恋人・梅ヶ枝が遊女となって手水鉢をたたくと小判が降ってくる「梅が枝の手水鉢」まで、古典を自在に操って複雑怪奇な筋立てとしたいかにも義太夫狂言らしい作となった。
 武士の世界は時代物として、町人の世界は世話物としてあり、ここではその二つが縄のようにないあわされて、時代と世話が複雑にからみあう「時代世話」の世界になっている。これがのちのちまで近世藝能の基本となる構造であった。
 浄瑠璃においては、正義が悪を倒して終わりということはない。登場する人物はしばしば何ものかと何ものかの板挟みになって苦悩し、時にわが子の命を、また自分の名誉を犠牲にしてしまう。それがなぜ当時の関西の町人に受けたかということは、もちろん彼らが武士の支配する封建道徳の世界に生きていたからとも言えるし、昭和時代において恋に泣く女の歌が流行ったように、それは流行ったのだと言うこともできるだろう。
 元文六年(一七四一)、二月に寛保と改元され、五月に竹本座では文耕堂、松洛、小川半平、小出雲の合作で「新うすゆき物語」を出した。これは浮世草子のロングセラーだった恋愛物語「薄雪物語」を下敷きにしたもので、やはり歌舞伎になって今日でも上演されている。実に竹本座の黄金時代だったわけである。
 これに出雲が参加していないのは、息子の竹田近江清英がからくり上演のため江戸へ下っていたのに同行していたからである。
 しかし竹田出雲も、七十代半ばを超える高齢であり、周囲は当然のごとく、江戸下りを止めた。だが出雲は、
 「わしはもう生い先長くない身やないか、江戸ちゅうもんがどないなところか、いっぺん見て冥途の土産にしたいのや」
 と言い、周囲も、それなら途中で倒れてもよしとするか、というので送り出したのである。淀川を三十石船で上り、そこからは出雲だけが駕篭に乗り、からくりの道具は十三頭の馬に積んでの大きな行列となった。
 江戸で出雲は、歌舞伎の市川團十郎に会った。といっても、二代目團十郎はこの時には海老蔵と名乗り、三代目團十郎を息子に譲っていたから、会ったのは海老蔵のほうである。海老蔵は五十三歳になっていた。
 「このままでは浄瑠璃は歌舞伎に人気をさらわれてしまいますわ」
 そう、出雲はぼやいた。二代目團十郎は、上方浄瑠璃を積極的に上演しており、「国性爺合戦」のほか、「曽根崎心中」や「心中天網島」の主役も演じたことがあった。著作権のない時代の無断上演である。
 海老蔵は、苦笑しながら、
 「それなら、浄瑠璃も歌舞伎のいいところをつまんでいったらいかが?」
 などと返した。出雲は海老蔵に、ぜひ上方へ来て上演してくれるよう言い、海老蔵は快諾した。といっても、その年十一月から、大坂の佐渡島長五郎の芝居に招かれていたのである。
 出雲・近江父子は帰路についたが、秋になって、海老蔵團十郎の父子が上方へやってきて、大当たりをとった。ところが十二月に息子の團十郎が病に倒れ、江戸へ帰ることになり、海老蔵だけが残った。出雲は年末には海老蔵を招いて一席設け、息子を心配する海老蔵を慰めた。
  年明けの正月から、海老蔵は「雷神不動北山桜」を初演し、歌舞伎十八番の一つである「鳴神」「毛抜」をここで披露した。歌舞伎十八番の多くはこの二代目團十郎の作・初演である。二月の竹本座では、松洛・小出雲の合作による「花衣いろは縁起」が上演されていた。
 だが三月になった時、江戸で二月二十七日に三代目團十郎が二十二歳の若さで死んでしまったという知らせが届いた。海老蔵は嘆いたが、契約があるから九月までは大坂に留まらざるを得ない。出雲は、五十過ぎて養子とはいえ後継者を失った海老蔵に深い同情を寄せていた。
 七月に出雲の単独作として「男作五雁金(おとこだていつつかりがね)」が初演された。大坂で処刑された雁金文七という無頼漢と、その仲間の総勢五人を主人公とし、のちの「白浪五人男」などの原型となった浄瑠璃である。ここでは発端で江戸が舞台となっているのは、江戸を実見してきた出雲が取り入れたもので、江戸の花岡文七という男と、大坂の雁金文七という二人の文七が登場する。これも大当たりで翌年春まで続演された。
  その初演からほどない八月末、ようやく和らいだ暑さの中で、出雲が次作の構想を考えていると、松洛と小出雲が蹌踉としてやってきた。
 「何ごとや」
 と、二人の顔色を見て出雲がぞっとしながら言うと、
 「文耕堂が逐電しました」
 と言う。はっと思って話を聞くと、さらに事態は深刻であった。近江清英が江戸へ行って留守の間に、近江の妻かなは、文耕堂とわりない仲になっており、それが今になって近江の知るところとなり、近江が猛り立って女敵討ちをすると言うので、文耕堂が消えてしまったというのである。
 「で、清英は、清英はどうしている」
 「奥様も切り殺されそうになり、私らで逃がして知る辺に預けております」
 ともかく、近江を宥めなければ、と、出雲は松洛、小出雲とともに近江の宅へ出向いた。
 近江は、自宅で目を据えて酒を飲んでいた。出雲らが入っていくと、
 「清定、女房はどこへやった」
 と小出雲に怒鳴った。出雲は老体なので、怪我があってはいけないと、小出雲と松洛から近寄らないように押しとどめられた。
 それから数日ごたごたが続き、出雲は疲れ切って家で寝込んでしまった。だが九月二日、荷物を取りに戻った近江の妻が、近江に発見されて刺し殺され、近江もその場で喉笛を切って自害してしまった。
 奉行所へは届け出たが、出雲の政治力で、何ごともなかったかのようにし、記録としては近江と妻が同日に死んだことだけが残った。
  出雲は、息子夫妻の悲劇に精神的衝撃を受け、老体に鞭打って、竹田からくりの後始末に奔走し、竹田からくりは近江の弟の平助に継がせて、四代目近江とした。
 十月四日に、かつて豊竹座の立作者として近松門左衛門と覇を競った紀海音が、享保期に引退していたが、八十歳で世を去り、出雲も自分もそろそろ定命だと感じるようになった。

竹田出雲二代(第二回)

 享保十一年(一七二六)、出雲の妻が死んでいる。出雲にとってはつらい時期だった。その年は出雲は「伊勢平氏年々鑑」を書いて九月に舞台に載せている。翌年四月には「小野炭焼・深草瓮師・七小町」という変わった趣向のものを書いて上演した。草紙洗小町、通小町など小町ものの多くをないまぜにしたもので、普通は小町ものでは大伴黒主が天下を狙う悪人になるのだが、ここでは八雲王子を悪人にし、黒主はそれを妨げようとする善玉とした。出雲は概して平安時代以前の古い世界を描くことが多く、いかなる当時の芝居も浄瑠璃も、徳川時代を描くことは禁じられていたため、「忠臣蔵」のように同時代の事件でも「太平記」世界に移すとか、江戸を鎌倉時代に変えるとかしたので、出雲が特殊なわけではないが、「忠臣蔵」や「近江源氏先陣館」のような、実際は徳川時代のことがらを過去にことよせて書くこと自体少なかったのは、座元としての配慮ゆえということもあったか。
 八月には出雲作「三荘太夫五人嬢(さんしょうだゆうごにんむすめ)」が上演された。説経節の「さんせう太夫」をもとに、三荘太夫の五人の息子を娘に変え、安寿と対王の父岩城判官の御家横領を狙う弟を悪玉に、三荘大夫が途中で改心したり、対王の身代わりとなる若者が登場したりと自由に描きなおしたもので、かなりの当たりをとった。
 今日から見れば驚くべきことだが、当時は著作権の概念がなく、浄瑠璃で当たった作があればすぐ歌舞伎に取り入れられた。この作も同年のうちに京都の佐野川万菊座などで歌舞伎に組まれ、翌年には大阪でも歌舞伎にされている。
 実際の人間が演じる歌舞伎は、女形という制約はあったが、次第にそれも洗練を見せ、浄瑠璃の人気を越えつつあった。享保十一年、豊竹座では、西沢一風、並木宗助らの合作による「北条時頼記(じらいき)」が当たり、十か月の続演という盛況を見せていた。
 そのころ京都で歌舞伎を書いていた、長谷川千四という男が、竹本座へやってきた。文耕堂が見込んで推薦したものだという。奈良の寺の出身で、千四は俳号だという。享保十三(一七二八)年五月に、出雲と千四の合作で「加賀国篠原合戦」を上演した。木曽義仲に、斎藤別当実盛の話をないまぜ、フィクションを交えたものだ。出雲の単独作に比べると、時代の新しさが感じられた。
 十四年二月にも千四との合作で「尼御台由井浜出」を上演したが、これは由井正雪ものだから、同時代の事件を題材にしている。慎重な出雲は渋ったが、千四の熱意に押し切られた形になった。
 八月には、やはり千四との合作で「眉間尺象貢」を上演した。これは中国の取替え子説話に取材し、伝説の刀匠干将・莫耶夫婦とその息子眉間尺を描き、主従・親子・夫婦の苦衷を描いたものである。だが、これは当らなかった。
 その九月十九日、かねて病んでいた兄の二代竹田近江が八十一歳で死去した。あとは、養子となっている出雲の次男が三代目近江を継ぐことになったが、まだ三十代の息子の後見として、当分竹田近江芝居のほうへ移る、と出雲は言い出した。
 太夫竹本政太夫人形遣いの吉田文三郎に、長谷川千四、息子の小出雲らが、困惑した顔つきになった。
 「どれくらいでおます」
 「まあ、四、五年といったとこやろな」
 「作者が足りますか」
 「そうやな」
 まだ小出雲は表へ出せる技量ではない。出雲は、文耕堂に帰ってもらうことを考え、すでに交渉に入っていた。幸い、文耕堂は戻ってくれ、享保十五年二月に千四との合作「三浦大輔紅梅たずな(革勺)」で竹本座に復帰した。
 出雲とか近江とかいうのは、むろん国名で、出雲掾は律令制度における国司の判官(三番目の官)だが、徳川時代には、菓子や浄瑠璃などの職人にこの掾号を名誉として朝廷から与えることがあった。近江や出雲は、その名義である。
 しかし浄瑠璃作者は職人ではなく、からくり人形を作成することのほうが「掾号」の由来であり、出雲がからくり芝居を大切にするのはそのせいもある。
 文耕堂と千四の二人は、出雲不在の享保十六(一七三一)年に「鬼一法眼三略巻」、十七年九月に「壇浦兜軍記」を書いて大当たりした。ところがこのあと、竹本大和太夫人形遣いの吉田文三郎、長谷川千四の三人による脱退・独立計画が持ち上がった。大和太夫は政太夫と並ぶ義太夫語りだが、政太夫のほうが切り語りを任されるなど重用されることに不満を抱き、これに文三郎と千四が乗ったのである。しかし一座の人形遣いの長老の吉田三郎兵衛が息子の文三郎を説得したため、独立は沙汰やみになった。
 しかし十八年(一七三三)三月十二日には大和太夫が、四月二十日には長谷川千四が四十四歳で死んでしまった。独立計画の挫折による自害などの類であろうことはきわめてありそうなことだ。四月八日からは、文耕堂が単独で書いた「車還合戦桜」が上演され、藝歴の長い竹本和泉太夫が、大和太夫の代わりに入座している。だが六月三十日、近くの竹田の芝居から火が出て、竹本座は類焼してしまう。これも、出雲の手腕で手配りよく再建され、七月には近松の「重井筒容鏡」で再建興行を打っている。
 これを機会に、出雲は竹本座へ戻ることにした。享保十九年二月には、文耕堂作の「応神天皇八白幡」の上演に際して、政太夫は二代目義太夫を襲名した。出雲は十月に「蘆屋道満大内鑑」という平安時代ものを書いて作者に復帰した。これは平安時代陰陽師安倍晴明が、父・安倍保名と狐の精の間の子だという古浄瑠璃「しのだづま」を典拠とし、悪人だった芦屋道満を善人に書き換えた作品で、「葛の葉子別れ」で知られ、翌年には歌舞伎化され、今日まで人気作となっている。この時、人形を三人で遣う方式が確立された。
 「やはり、親方あっての竹本座や」
 と、座では出雲を改めて尊敬するのであった。
 「しかし、親方」
 息子の小出雲が言う。
 「これ、どないしても安倍晴明の話でっしゃろ。なんで外題が『芦屋道満』なんですやろ」
 「ほらな、お前、ちょっとしただましや」
 「だまし?」
 「そや、客は外題見て何にゃろなあ、思うて観に来るわ、すると実は安倍晴明の話やったというわけや。近松はんが『碁盤太平記』でな、あれも外題だけやと何のことやら分からんやろ、そこを楽しむねや」
 「ははあ」

竹田出雲二代(第一回)

序言
 死去した橋本治には『浄瑠璃を読もう』(新潮社)という著作がある。その中で、「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」の三大名作とされる浄瑠璃は、いずれも竹田出雲、並木千柳(のち宗輔)、三好松洛という「三人の劇作家」によって書かれた、とある。だが「竹田出雲」は、「菅原」では初代、「千本桜」と「忠臣蔵」では二代目であり、別人であるというのが現在の定説である。私は橋本がこの稿を『考える人』に連載中、この間違いに気づき、編集者に伝言を頼んだことがあったが、単行本になってもその箇所は直っていなかった。伝言が伝わらなかったのだと考えたいが、晩年の橋本には、いくつかおかしなところがあった。これはその誤りを正すため、小説の形式を借りて、竹田出雲二代を表そうとしたものである。


 享保九年(一七二四)三月二十一日、大坂は大火に見舞われた。橘通三丁目(現・大阪市西区南堀江)の金屋治兵衛の祖母妙知尼宅より出火したため、妙知焼けと呼ばれ、大坂史上でも例を見ない大火となった。船場一帯が焼けた上、火は北に向かって淀屋橋、堂島、曽根崎を焼き、さらに東へ回って天満一帯を焼いた。翌二十二日には火は島之内から、道頓堀川を越えて千日前に及んだ。
 道頓堀の南側は芝居と人形浄瑠璃の小屋が立ち並んでいた。浄瑠璃では竹本座と豊竹座、歌舞伎芝居では中の芝居・角の芝居・角丸の芝居、からくり芝居の竹田の芝居が立ち並んでいたが、みな焼けた。
 (なんてえ、ことや)
 焼け跡を歩いているのは、竹田出雲、竹本座の座主である。年は五十代半ばである。竹本座の座付き作者・近松門左衛門を押し立て、自らも浄瑠璃を書いてやってきた。この一月には近松の「関八州繋馬」を上演していた。
  京都町奉行所の与力を務めた神沢杜口の随筆『翁草』には、竹田出雲の前身は講釈師だったと書かれているが、今日この説を採用する者はない。
 その近松も今年七十二歳で病がちである。今回の火災はどうやら免れたが、精神的な傷手が大きいようだ。
 焼け残った家に退避している近松を、出雲は見舞うところだ。
 「ごめん」
 と声をかけると中へ通され、どうやら今まで寝ていたらしい近松が起き上がったばかりという様子で出雲を迎えた。顔には疲れの色が見える。
 「私ゃあ、『関八州』で書き納めかもしれまへんな」
 などと言うから、出雲は、いえぜひこんな大火から竹本座も再起したという意味合いで新しいお作を、と言う。だが出雲自身も、近松はこれぎり、という予感はしていた。
 「ああそうや、太夫元さん」
 近松が言う。
 「私の名前は、一代限りにしておくれ」
 つまり、二代目近松門左衛門は作らないでくれということである。浄瑠璃作者の地位が上がったのは近松によってであり、
 「こないなこと、私が言うのもおこがましいんやが…」
 あえて言った、ということらしい。出雲は承知の旨伝える。
 出雲の本家は竹田近江掾といい、竹田の芝居でからくり芝居をしている。出雲は初代近江の次男、二代近江の弟で、出雲の長男・清英がその養子となっている。ガマの油売りの口上にも「わが国にも人形の細工師、あまたありといえども、京都にては守随(しゅずい)、 大阪表にては 竹田縫殿助、近江大掾藤原朝臣」と言っている。出雲の次男は清定といい、のち二代出雲となる。三男の平助清宗が、四代近江と三代出雲を兼ねている。
 「作者が育ちますればよろしいのですが・・・」
 出雲が口を濁すように言うのは、近松の死を含意してしまうからである。
 「いや、あなたもたいがいいい作者におなりや」
 と近松。出雲は前年に松田和吉との合作で「大塔宮曦鎧」を書いて作者としてデビューしている。和吉はのちの文耕堂である。出雲は十年近く、近松に師事して研鑽に励んできたのだ。息子の清定も、作者になる気満々であった。
 浄瑠璃という語り物は、太夫が語り三味線が音楽をつける。中世以来のものもあるが、近松が「出世景清」を書いたあとが現代の浄瑠璃で、それ以前のものは「古浄瑠璃」と呼ばれる。全部で五段の時代ものが中心で、近松が書いた「心中天網島」などの世話浄瑠璃は三段、人気はあったがあくまで添え物の立場である。近松や豊竹座の紀海音の心中もの浄瑠璃がはやったため、心中が増えた。幕府ではこれを「相対死」と呼んで罪とし、心中ものの上演を禁じた。吉宗将軍の時代のことである。
 竹本座の創立者は、竹本義太夫浄瑠璃語りで、近松とともに近世浄瑠璃を完成させたと言われる人物である。
 近松最大の当たり作は「国性爺合戦」、堂々たる時代ものである。当時の観客は、日本を東アジアの一部として考える視野を持っていたのかもしれない。「なむきゃらちょんのふとらやあやあ」という、「千手千眼大悲心経」を漢語でいったかけ声が大はやりした。
 竹本座と鎬を削る間柄だった豊竹座でも、立作者として近松に拮抗した紀海音が、自宅も焼けて、六十二歳で引退し、以後は俳諧狂歌に生きることになった。豊竹座は、元禄十六年に、竹本座の竹本采女が独立し、豊竹若太夫を名のって始めた人形操り芝居である。人形遣いの辰松八郎兵衛が相座元になっていた。若太夫が独立したのはわずか二十三歳の時であった。
 火事のあとの復興は早く、竹本座も仮小屋を建てて、七月には出雲自身の作「諸葛孔明鼎軍談」も上演した。「三国志」に取材した大胆な作であった。これには、近松が推奨の序文を書いてくれた。
 「竹田出雲少掾千前(出雲の号・千前軒)、予が浄瑠璃作文を深信じ。心を付て工夫を凝し。品々はなやかにめづらかなる趣向を編。予に添削口伝を受。蟠龍の時を待つこと十年余。今度。諸葛孔明鼎軍談。出雲掾一人の心腹より出る一字一点よが添削琢磨の筆を加えず。善哉。迫譜(せりふ)。わたりもぢり。およぎ等。文字の活亡(いきしに)。悉予が秘する所にかなひ。瓶に心水を移すがごとし。故(かかるゆへ)節にかけて口にあまらず。たらぬことなく。操の小間あかず。国姓爺に肩ならぶるとの評判。又楽しみにあらずや。ここに至つて、浄瑠璃作者竹田出雲と題せんに誰か非なりと云はん。

 その近松門左衛門は、十一月二十二日、没した。中年を過ぎてから浄瑠璃作者として多くの著名作品を残した人だった。竹本座では、出雲作の「右大将鎌倉実記」を上演していた時期だった。
 出雲は、近松亡きあとの作者の体制を整えなければならない。自分と、一番頼りになるのは和吉の文耕堂であろう。
 穂積以貫は、当時三十歳ほど、京都の伊東東涯に師事する古義学派の儒学者だが、近松の心酔者で、のち『難波土産』に「虚実皮膜の論」を近松の言葉として書いたことで知られる。竹本座への出入りも繁く、出雲のところへ題材「大友真鳥」を持ち込んできた。これは古浄瑠璃で、文武天皇時代に謀叛を起こした九州探題である。高村兼道、助八の兄弟がその企みを打ち破るという架空の物語だが、真鳥はキリシタン大名大友宗麟をモデルとしている。
 翌年九月「大内裏大友真鳥」として上演された。だがその頃、頼みとしていた文耕堂が、京都へ行って亀屋座という歌舞伎芝居の作者になってしまった。
 八代将軍吉宗享保の改革で奢侈を禁じたので、歌舞伎や江戸の浄瑠璃は弾圧を受けたが、大坂の浄瑠璃だけは、禁裏の保護もあり、弾圧を免れた。