室井尚という人

室井尚といえば、横浜国大教授だった人で、同大に唐十郎を教授として招いたことで知られる。この人も「禁煙ファシズムと戦う」人で、『タバコ狩り』という本を出していて、これは送って来たが、タバコの害について科学的に否定しようとする本で、しかもその科学的議論が、「南陀楼綾繁」みたいな変名の人の議論からとってきている。これもパイプクラブの連載だったようだが、私はこの変名の議論を見て、ああこりゃダメだと思った。私は「禁煙ファシズムと戦う」は、程度問題についての議論(たとえば屋外を全面禁煙にする必要はないなど)で行うべきだと思っていた。室井が山形浩生とウェブ上で議論していた時も、室井のほうが分が悪かった。

 室井はそれより前、1999年に私の『江戸幻想批判』が出た時に、上の世代にも下の世代にも受けがいいだろう、中身はいいんだが何だかんだと書いていたが、ずいぶんピントのずれた議論で、あれは先輩とか学会の目上の人を批判した本で、そっちで私が迫害を受ける種類のものだと、なんで学者である室井が分からなかったのか謎である。

岡嶋二人と母

 岡嶋二人という二人組の推理作家がいた。乱歩賞をとり、吉川英治新人賞もとったが、そのご解散して、片方だけが井上夢人の名で書いている。

 私が大学院生だった1988年ころ、両親とテレビを観ていたら、岡嶋二人原作のドラマの予告が流れたことがある。すると父が、「この岡嶋二人ってのは、二人で書いてるんだよな」と言った。すると突如母が、「なーにをまたお父さんいい加減なことを、ねーえ」と言って私のほうを見たから、私は、いや二人だよ、と言い、なんで母はこういうアホウなことを言いだすのだろうと思ったが、記憶では母は別に謝ったとも思えなかった。

 私は長いことこれを、父をバカにしたがる母の悪い癖だと思っていたのだが、今ふと考えたら、これはいちゃつきのつもりだったのではないかと思った。母はまあその、あまり頭が良くないので前後のことも考えず、私を巻き込んでそんなことを言ってしまったんじゃないかと思う。もっとも、母が生きていても、この件はまったく覚えていないであろうことは確実である。

関口鎮雄と坂本石創

 田山花袋の晩年に、息子の先蔵と次女の千代子が恋愛関係の事件を起こしている。先蔵のほうは、早稲田の教授だった吉江孤雁の娘に恋慕して、吉江宅を訪ねて面会を強要し、警察に捕縛された事件が新聞に報道されている。小林一郎の『田山花袋研究 歴史小説時代より晩年』にも書いてあるが、娘のほうは書いてないらしい。 

 これは花袋の弟子の坂本石創「文壇モデル小説 その日の田山花袋」(『人物評論』1933年9月)に実名で書いてあった。長女は早くに嫁入っていたが、次女の千代子は、1908年3月生まれで、1924年に、花袋の弟子の関口鎮雄と駆け落ちして連れ戻され、会計学者・早大商学部教授になる長谷川安兵衛に嫁入りさせられていたが、1927年の4月28日にまた関口と駆け落ちした。関口は日本旅行協会勤務で「旅」という雑誌の編集をしていた。話を聞いた坂本が、前田晁(木城)と一緒に杉並の馬橋の関口宅を訪れると果たして千代はいたが、そこへ花袋が怒り狂って乗り込んできて千代を連れ戻してしまう。どうやら千代はそのまま長谷川のもとへ帰されたらしい。坂本にはこれを変名で書いた『結婚狂想曲』という小説もある。坂本はこの件で花袋と訣別したらしい。
 『田山花袋宛書簡集』(館林市)によると、関口鎮雄は明治二十九年(一八九六)ころの生まれで、群馬県出身、祖父関口六合雄(くにお)は妙義神社の社司で、二間の宿屋(坊)を経営していた。はじめの結婚で一人娘がおり、これが婿養子を迎えたのが、鎮雄の父の白峰で、師範学校卒だったが、母が死んだあと別家され、幼い鎮雄とその弟を連れて小笠原島の小学校校長を務めてから再婚して朝鮮に渡り、女学校の主事をしていた。関口白峰は花袋とは旧知の仲で、館林出身、高等小学校で花袋の後輩に当たり、花袋が二十七、八歳のころ一緒に文学をやった仲間だった。明治二十九年二月、花袋は白峰が経営する白雲山麓「遊雲閣」に滞在して、生まれたばかりの鎮雄に会ったという。
 関口鎮雄は、十六歳の明治四十五年から、花袋編集の『文章世界』に短歌、俳句を載せるようになり、大正四年、東京の正則英語学校を卒業し、父に紹介の手紙を書いてもらい、大正五年六月、花袋に会って文学者志望を述べ、翌月父のいる朝鮮に渡り、ゾラやモーパッサンを読んですごした。大正六年に、鎮雄を弟子にするという手紙が花袋から届き、鎮雄は秋に上京して、花袋の甥の真鉄(花袋の兄実弥登の長男で、東京帝大史料編纂所勤務)と花袋の家の隣の小家で同居した。
 祖父は神宮(かみにわ)家の養子となり、暠寿を名乗り、白峰の実姉を後妻にし、間に子供を儲けていたが、この子供らは鎮雄と同年配だった。祖父は御嶽教という神道の一派の管長となったが、大正十二年ころにここで内紛が起こった。後妻の息子と従兄の間で争いになったらしい。
また鎮雄は従兄の推薦で東京市内の私立男子中学校の英語教師をしていたが、そこで左翼思想にかぶれた生徒が放校になったのを、大正十年五月から『中学世界』の編集部に勤務していた白石実三の依頼で「XYZ」という匿名で「新思想にかぶれて・・・放校された全校一の秀才」という文章を同五月号に載せたところ、それが学校側に知れて結局辞めることになったという。これは新思想にかぶれ、といっても、修身の答案で、上級生と下級生に区別をつける必要なし、といった平等思想を述べたものに過ぎず、実際に思想問題が起きたわけではなかった。この学校は、皇室の信頼も厚いS氏が校長を務める尊王的なN中学となっている(『結婚狂想曲』)から、杉浦重剛が創立した日本中学かもしれない。
 さて、その関口が、ドイツ語の翻訳を数冊出しただけで、以後消息不明、没年も不詳になっているのだが、花袋の次女・千代と恋仲になってセックスもしていた、というのが『恋愛狂想曲』である。しかし花袋はこの不行跡を許さず、千代を長谷川安兵衛に嫁入らせるが、昭和二年にまた関口と駆け落ちをし、花袋らに発見されて連れ戻されたという経緯らしい。

小松美彦という人

小松美彦(よしひこ)といっても、世間では妖怪研究の小松和彦と間違われる程度に無名らしい。小松茂美の息子といったほうが通りがいいだろうか。倫理学者で今年まで二年だけ東大文学部教授だった。

 禁煙ファシズム批判の人だったから細々とやりとりがあったが、2018年暮れ、私が煙草をやめて苦しんでいるころに『「自己決定権」という幻想』という妙に論争的な本の増補版を送って来た。

 私は、梅原猛が臓器移植に反対したあたりから、自己決定権だの安楽死だのに関する議論が、学問的な厳密性を欠いていると思っていて、かといって評論的にも大して関心はなく、自己決定権なんてものは個別に判断すればいいんじゃないかと書いたこともあるし、宮崎哲弥小林よしのりの「犬死に」をめぐる論争も何だか珍妙なことで争っているなあとしか思わなかった。

 しかし小松の本には死刑制度批判が書いてあり、私は死刑廃止論を批判したことがあるので、メールでそのことを伝えた。それは、私に反論しないのはアンフェアではないかという含みもあったのだが、まあ相手にするに値しないと思われるということもあろうし、今の私は別に死刑廃止したっていいんじゃない、別に自分では熱心にそれを言う気はないけど、という程度に無関心である。

 ところが小松が、私に本を送った理由を三つくらい述べてきて、それは禁煙ファシズム批判についてもそこに書いてあり、私ほど体を張ってはいないが戦っているからだ、と書いてあった。

 私が下井守と東大構内喫煙で論争して雇い止めになったのは2008-09年のことだ。なおこれについて、海外の大学では、キャンパス内屋外を全面禁煙にしている例というのは知らない。それはそうと、この事件の時、駒場で非常勤をしていた小松は、もちろんなーんにも言っては来なかった。そして2018年には63歳で東大教授になったわけで、へえー割と威勢よく論陣を張るけれど大学での任用に関わりそうなことになると黙っているという処世術というわけね、と私はちょっと思った。

 私は禁煙ファシズムと戦うのはやめにしたが、それはこういう「信用できない味方」が多すぎたからである。何だか小松がワクチン反対論を言い出しているというところから、ふとそんなことを思い出した。

小谷野敦

「次郎物語」の結末

次郎物語」は、近代の古典的小説の中でも特異な位置を占めている。作者・下村湖人は文壇の人ではないし、教師をしていて50過ぎてから「次郎物語」を書き始めている。私も若いころ、偕成社の児童向け日本文学で第一巻を読んだきりになっていたが、これは最後の第五部あたりはどうなっているのかと図書館で借りてきたら、次郎は青年になって、朝倉先生という人の友愛塾というのに参加して、自由主義的な教育を受けている。朝倉先生は五・一五事件を批判したりしているが、今度は二・二六事件が起こる。ここで第五部は終わっていて、湖人はここは戦後に書いたようだが、その後は書かれずに終わっている。文藝として優れているとはあまり思えないが、作者が50過ぎてから筆をとって後世に残る作品を書いたことは、ある種の出発の遅かった作家を勇気づけるかもしれない。

「安曇野」の思い込み

臼井吉見の『安曇野』という長編小説がある。筑摩書房の『展望』に連載されたもので、全五巻、ちくま文庫版では一冊が450ページ以上ある大作である。谷崎潤一郎賞を受賞している。

 臼井は長野県安曇野の出身で、筑摩書房の創業者・古田晁とともに上京してきている。だから、中途半端に事情を知った人は、この題名と大作ぶりから、これを臼井の自伝的小説だと思い込んでしまう。「安曇野の美しい自然に抱かれて育った感受性豊かな少年・浩一・・・複雑な家庭環境にめげず、文学に開眼し、性に目覚め、浩一の人生は大きくはばたこうとしている」みたいなものを想像するのである。

 ところが『安曇野』はそういう小説ではなく、明治期に中村屋というパン屋を作った相馬黒光と、その黒光に片思いしてもだえていた荻原守衛、その守衛を翻弄して楽しむ黒光を描いた愛欲歴史小説なのである。勘違いしたまま、文章を書いてしまった人もいる。

親と子のすれ違い

 私が若いころ、両親それぞれに、私の趣味に媚びるような買い物をすることがあって、父親が村上春樹ブックとか三島由紀夫の世界とか買って来たのは、私が村上春樹三島由紀夫を嫌いなのを知らないでなので困ったことだったが、母親は、カナダ留学中に『批評空間』を買っておいてくれるよう頼んでおいたら、帰国した時、別冊の『ANYONE』という浅田彰の趣味の建築の本まで買ってあって、あちゃあこれは要らなかったんだよなあと思いほどなく売ってしまったが、浅田の伯父が建築家だったというのを昨日知ってそういうことだったのかと思ったがあの当時から建築についてあれこれ言う人がいて、井上章一さんは専門だからまあいいんだがミーハー的建築趣味の人というのがわりあい理解できずに今日に至っている。