関口鎮雄と坂本石創

 田山花袋の晩年に、息子の先蔵と次女の千代子が恋愛関係の事件を起こしている。先蔵のほうは、早稲田の教授だった吉江孤雁の娘に恋慕して、吉江宅を訪ねて面会を強要し、警察に捕縛された事件が新聞に報道されている。小林一郎の『田山花袋研究 歴史小説時代より晩年』にも書いてあるが、娘のほうは書いてないらしい。 

 これは花袋の弟子の坂本石創「文壇モデル小説 その日の田山花袋」(『人物評論』1933年9月)に実名で書いてあった。長女は早くに嫁入っていたが、次女の千代子は、1908年3月生まれで、1924年に、花袋の弟子の関口鎮雄と駆け落ちして連れ戻され、会計学者・早大商学部教授になる長谷川安兵衛に嫁入りさせられていたが、1927年の4月28日にまた関口と駆け落ちした。関口は日本旅行協会勤務で「旅」という雑誌の編集をしていた。話を聞いた坂本が、前田晁(木城)と一緒に杉並の馬橋の関口宅を訪れると果たして千代はいたが、そこへ花袋が怒り狂って乗り込んできて千代を連れ戻してしまう。どうやら千代はそのまま長谷川のもとへ帰されたらしい。坂本にはこれを変名で書いた『結婚狂想曲』という小説もある。坂本はこの件で花袋と訣別したらしい。
 『田山花袋宛書簡集』(館林市)によると、関口鎮雄は明治二十九年(一八九六)ころの生まれで、群馬県出身、祖父関口六合雄(くにお)は妙義神社の社司で、二間の宿屋(坊)を経営していた。はじめの結婚で一人娘がおり、これが婿養子を迎えたのが、鎮雄の父の白峰で、師範学校卒だったが、母が死んだあと別家され、幼い鎮雄とその弟を連れて小笠原島の小学校校長を務めてから再婚して朝鮮に渡り、女学校の主事をしていた。関口白峰は花袋とは旧知の仲で、館林出身、高等小学校で花袋の後輩に当たり、花袋が二十七、八歳のころ一緒に文学をやった仲間だった。明治二十九年二月、花袋は白峰が経営する白雲山麓「遊雲閣」に滞在して、生まれたばかりの鎮雄に会ったという。
 関口鎮雄は、十六歳の明治四十五年から、花袋編集の『文章世界』に短歌、俳句を載せるようになり、大正四年、東京の正則英語学校を卒業し、父に紹介の手紙を書いてもらい、大正五年六月、花袋に会って文学者志望を述べ、翌月父のいる朝鮮に渡り、ゾラやモーパッサンを読んですごした。大正六年に、鎮雄を弟子にするという手紙が花袋から届き、鎮雄は秋に上京して、花袋の甥の真鉄(花袋の兄実弥登の長男で、東京帝大史料編纂所勤務)と花袋の家の隣の小家で同居した。
 祖父は神宮(かみにわ)家の養子となり、暠寿を名乗り、白峰の実姉を後妻にし、間に子供を儲けていたが、この子供らは鎮雄と同年配だった。祖父は御嶽教という神道の一派の管長となったが、大正十二年ころにここで内紛が起こった。後妻の息子と従兄の間で争いになったらしい。
また鎮雄は従兄の推薦で東京市内の私立男子中学校の英語教師をしていたが、そこで左翼思想にかぶれた生徒が放校になったのを、大正十年五月から『中学世界』の編集部に勤務していた白石実三の依頼で「XYZ」という匿名で「新思想にかぶれて・・・放校された全校一の秀才」という文章を同五月号に載せたところ、それが学校側に知れて結局辞めることになったという。これは新思想にかぶれ、といっても、修身の答案で、上級生と下級生に区別をつける必要なし、といった平等思想を述べたものに過ぎず、実際に思想問題が起きたわけではなかった。この学校は、皇室の信頼も厚いS氏が校長を務める尊王的なN中学となっている(『結婚狂想曲』)から、杉浦重剛が創立した日本中学かもしれない。
 さて、その関口が、ドイツ語の翻訳を数冊出しただけで、以後消息不明、没年も不詳になっているのだが、花袋の次女・千代と恋仲になってセックスもしていた、というのが『恋愛狂想曲』である。しかし花袋はこの不行跡を許さず、千代を長谷川安兵衛に嫁入らせるが、昭和二年にまた関口と駆け落ちをし、花袋らに発見されて連れ戻されたという経緯らしい。