マッチョ俳句

長いこと、私の一番好きな俳句は、山口誓子

「夏の河赤き鉄鎖のはし浸る」

であった。中学生の時に教科書で見て以来で、ほかにも尾崎放哉とか好きではあったが、誓子のこれを越えたものはなかった。

 当時、女性の国語の先生が、私がこの句が好きだと書いたら「見捨てられた風景のぶきみさ」と書いてきて、その評に感心したものだが、もしかしたら教師用アンチョコに書いてあったのかもしれない。

 1986年に、俳句をやる柳家小三治がNHKの俳句番組に出ていて、その場で夏の俳句を作ったのだが、俳人も出ていて、そちらが「夏はじまる」で終わる句を作ったら、小三治がやたらとその「夏はじまる」に感心していた。

 今回、調べたらその俳人は鷹羽狩行らしい。鷹羽といえば藝術院会員で、俳壇の重鎮である。そしてその句はたぶん、

「船よりも白き航跡夏はじまる」

 なのだが、これを見た時、昔いっぺん見たはずなんだが、感心してしまった。赤き鉄鎖以来というくらい感動してしまった。

 もしかすると、私は夏の句が好きなんだろうか。そして、マッチョな句が好きなんだろうか。俳句ではないが、和泉式部みたいなのは、人が口にしすぎるので通俗化する、女性的抒情はそういうところがある。

馬部隆弘「椿井文書」アマゾンレビュー

2020年4月19日に日本でレビュー済み

 
最後の章の、どんな風に偽文書が利用され、是認されていくかというところが、恐ろしい話として面白かった。もっとも、椿井文書が関係しているのが武将などではなくて神社の由来など地味なところなので、一般読者にはそのへんは退屈かもしれない。町おこしのために行政が偽文書に頼り、学者がついそれに手を貸すという構図が恐ろしい。瀧浪貞子みたいな名前も出てくるし、京田辺市周辺から著者への反論が多く出てくるというのも怖い。
 自説を否定された学者が、それを撤回することはまずなく、むしろ復讐を企てたりするから怖い。だから最後の章は、著者を心配するホラーのようだった。

島田雅彦「スノードロップ」アマゾンレビュー

2020年6月14日に日本でレビュー済み

 
天皇好きアベガーである作者が、現在の天皇皇后をモデルとし、反安倍的な政治改革を試みるというおよそバカげた話である。皇后はロシヤの大統領や中共主席と話をして、日米安保を破棄して日露中同盟を作ろうとする。渡部直己はこういうのも、天皇を描いているから不敬小説だと言うのだろうか。天皇好き右翼の反米小説。「新潮」6月号ではなんリベ仲間の保阪正康との対談も載っている。島田雅彦よ、お前は身分制度を認めるのか。

レッシング「ミンナ・フォン・バルンヘルム」と, 小宮曠三の解説

岩波文庫で、ゴットホルト・エフライム・レッシングの「ミンナ・フォン・バルンヘルム」を読んだ。ベルリンのある宿屋で、ミンナと婚約者が遭遇し、何か誤解が生まれて関係が敗れそうになるが誤解が解けてハッピーエンドになるという喜劇らしい。かなり丁寧になされた翻訳で、以前グルジアと言われていた土地が、1962年当時ジョージアと今と同じに呼ばれていたことが分かる。

 ところが読んでいてふっと何が問題なんだか分からなくなる節があり、いくらか気が遠くなったりもして読み終え、訳者・小宮曠三の「解説」を読めば分かるかと思って読み始めてたまげた。この解説、46ページもあり、ほぼレッシングの全生涯を論じつくす論になっている、それもそのはずで、もともと1940年に小宮が大学を卒業する時に書いた、つまり卒論を改定したものだという。道理で「ミンナ」の解説になっていなくて、フリードリヒ大王の治政がいかなる欠陥を持ち、レッシングがそれとどう関係したか、当時の軍人の地位とかが縷述されていて、こういうことを心得ておかなければこの喜劇は理解できないのか、と思わせる。

 だが、レッシングには「賢者ナータン」という戯曲があって、これは恋人同士が兄と妹であることが分かり、みな大喜びでエンドになるというびっくり仰天劇である。ゲーテボーマルシェ以前の文学にはこういう分からないところがある。それ以前なのにシェイクスピアが分かるのは、シェイクスピアが例外なのである。

 なお小宮曠三はドイツ文学者だが、漱石門下の小宮豊隆の息子である。私の先輩で死んでしまった小宮彰さんというのがいて、18世紀啓蒙思想が専門だったが、今のところ関係はなさそうだ。

 

山本順一「悪者扱い 十五代目時津風」アマゾンレビュー

2020年4月4日に日本でレビュー済み

 
実際に時太山に暴行したのは兄弟子三人だが、口裏を合わせて時津風の指示だったと言い逃れて執行猶予がつき、時津風実刑をくらって服役中に病死した。時津風を切り捨てた相撲協会、師匠を裏切った時津海や霜鳳、被害者遺族の不可解な行動(未成年なのに喫煙していたというから厄介払いしたかったのが本音だろう)など人間のどす黒い部分があれこれ書かれているが、本書刊行当時マスコミは無視した。

伊藤氏貴「同性愛文学の系譜」アマゾンレビュー

2020年6月26日に日本でレビュー済み

 
著者は、日本には男色や衆道という「同性愛」があったと言っているが、徳川期以前の衆道は「少年愛」であり、大人の男が前髪の少年をめでるという非対称なものであった。たとえば佐伯順子は正しくそう指摘している(『男色大鑑』角川文庫解説)。著者がその見解に反対だというなら、そういう立場をとる論者に対して反論をしなければならない。でないとただの間違った前提の上に立った紹介文にしかならない。また妙なことに本書には引用文献一覧があるが参考文献一覧がないのだがどういうわけで先行研究を無視しようとするのだろうか。

木原善彦「アイロニーはなぜ伝わるのか?」アマゾンレビュー

2020年7月19日に日本でレビュー済み

 
ですます体で書かれているので、知らずに読み始めると平和な言語学者が書いた本かと思うが、「ハックルベリー・フィンの冒険」を「冒けん」などと表記しているので、ああ柴田元幸に媚びる必要があるアメリカ文学者だな、と分かる。前半はだいたい穏当な内容だが、「脱構築」をアイロニーとしている。例として大橋洋一の著書から、大学教授が「〇×式教育はよくない」と発言したのに対して、その発言自体が〇×式だ、という反論が紹介されている。だが、すべての脱構築は、ソクラテスでもやるような平常の反論であって、そこにアイロニーはなく、脱構築とわざわざ名付ける必然性もない。そのあとの民主主義国家で独裁者が選ばれることが多くなったというあたりは事実かどうか疑わしく、著者は親中派っぽいと分かる。なおソーカル事件について、「査読」を通ったと書いているが、「ソーシャル・テクスト」は当時は査読制ではなかった。ロマンティック・アイロニーに触れられていないのは新書だからだろう。