「ゼロの焦点」と結婚の幻想

松本清張の『ゼロの焦点』を読んだのは、カナダから帰って来たころのように思うから、1992年ころか、まあだいたい今から30年前だろう。しかるに、この小説の筋を、私はなぜか覚えていない。発端は覚えているのだが、そのあとどうなったのか覚えていない。面白かったという記憶ももちろんない。しかし、世間では評価が高いらしい。

 今般、久我美子が主演した1961年の白黒映画を観てみたが、何だかひどく込み入った話で、これはなるほど、他人はともかく私の頭には入らないなと感じた。一つには、敗戦後、米兵相手のパンパンであったことを隠す女というのが重要なモチーフとして出てくるが、私は『砂の器』にしてからが、警察官は何も過去をバラすと言って脅したわけではないのだから殺人の動機として微弱だと思うし、ドストエフスキーの『白痴』でも、ナスターシャ・フィリポヴナは過去にこだわりすぎていると思う。もっともこれは、前の旦那がユダヤ人だったということと、ドストのユダヤ人差別がからんでいるのだろうが、特にこの小説にも感心するところはない。

 あと「ゼロ」というのは結婚生活がゼロのうちに夫が死んでしまったということを示しているのだが、1954年には、結婚ということに過剰な期待をし美化する人たちがいたのであろうということを感じさせる。あるいは、結婚相手の過去についてあまり知らずに結婚してしまうということが多かったのだろうか。野沢尚の「眠れる森」(1998)で、ヒロインが、これから結婚しようとしている相手の出身大学を初めて知るシーンがあり、出身大学を知らずに結婚しようとしていたのか、と苦笑するほかなかったが(しかもそれは重要な伏線であった)、1954年ころにはその程度のぼんやりした知識で結婚する人がいたんだろうか、と思ったことであったが、今でも小説や映像化でこれの好きな人はいるらしいから、そういう風には感じない人もいるのだろう。

小谷野敦