飛行機の席は、奨学金を出したカナダ政府でとったものだったか、詳しいことは忘れたが、禁煙席だった。私は当時はまだ耐えられたから、寝る時間になって暗くなった時にこっそり一服しただけだった。
留学生を空港で待っていて大学まで案内してくれるサービスに申し込んでおいたので、若くて太ったカップルみたいなのが待っていて、車で彼らのアパートへ連れて行ってくれたが、単に自分らで申し込んで大学から少量の謝金をもらっているらしく、私はソファで寝るだけだったし、夜には変な仲間が数名集まってきて酒を呑んでいたから、これは要らなかったな、と思った。
そこに一泊して大学へ行き、割と狭苦しい大学の寮の部屋に入った時は、やっと落ち着いたが、不安も大きかった。ヴァンクーヴァーの夏は当時は日本よりはずっと涼しくて、翌年の夏は、ここに住めるなら住みたいと思うくらい気候としては快適だったが、その夏もそんな感じだったろうか。大学の中央には「スチューデント・ユニオン・ビルディング」という横に広がったビルがあり、食堂やカフェテリア、モントリオール銀行の支店からゲームセンターまで入っていたが、そこへ行ってコンコースのようなところへ足を踏み入れたとたん、向こうから、篁さんが片手に大き目の鞄を持って歩いてくるのに出くわしてしまった。私はそこに立ち止まったまま呆然として見ていると、あちらはちらりとこっちを見た程度で通り過ぎてビルから出て行ってしまった。
私はパニック状態になり、寮へ飛んで帰ると、入り口のあたりにあった旧式の公衆電話に、途中で作って来たのか、コインをじゃらじゃらと入れて、清滝に国際電話をかけた。よくあんな電話でかかったものだと思うが、東京では午後八時から十時ころだったろう。オペレーターが英語で話しているのが聞こえて、清滝が「イエス、イエス」とせくような声で答えているのが聞こえて、やっとつながった。
「会っちゃった。無視された。どうしよう」
と情けない声を私は出したが、清滝は、
「これからだよ」
と沈んだ声で言った。だがほどなく多量のコインもたちまち尽きて、通話は切れた。
大学院の授業は九月からなのだが、その前に夏休みの語学コースに出席するために八月に来ていたので、その間に、大学からバスで十五分ほどのところにある住宅街の半地下の部屋を借りて、八月中にそこへ移った。清滝の住所は、いつか教えてもらえるだろうと思って、そこに置いてあった紙に長い手紙を書いていたが、十月ころになってやめてしまった。
それから八年がたった。私はカナダ滞在中、ついに篁さんには口も利いてもらえず、帰国して一年半して大阪大学の英語の講師になった。吉川さんが隣の駅に住んでいたので、つきあうようになったが、私が不安神経症を患ったため、ダメになった。それでも博士論文を日本で書いて博士号をとり、「朝日新聞」にも連載するようになったころ、大学のメールボックスに、英国からのやや分厚いエアメールを発見した。清滝美紀からだった。宛先は、大阪大学文学部比較文学科、となっていたが、私が所属していたのは語学教師の集まりの言語文化部というところだったから、そちらから回って来たのだった。
それから授業があるところだったので、学生に何かさせている合間を縫ってあわてて読んだが、清滝は今では英国人と結婚して英国に住んでいるという。「朝日新聞」で、私が大阪大学にいるのが分かって手紙を書く気になったという。インターネットが普及するまであと一、二年という時代のことである。
「あなたのことは今の夫にも話しました。「身分が違った」と言いました。大げさな言葉を使いましたが、夫は私を抱いて泣いてくれました」
といったことが書いてあった。
私はその日すぐに返事を書いた。ワープロで書いたはずで、吉川さんとつきあっていたこともあったことも書いた。出すとすぐ、今度は私の住所宛てに返事が来て、
「あなたの住所を知るために吉川さんに問い合わせようかと思ったのですが(吉川さんの勤務先大学は知られていた)、もしかしたらつきあったりしているかもしれないと思って躊躇していたのですが、問い合わせなくて良かったです」
といった返事が来た。私はまた返事を書いた。あと二年くらいあとなら、メールで済んだことだろうが、そのあと、返事は来なくなった。
それから十年くらい、いやもっとたった頃だろうか。私はふとインターネットで「清滝美紀」を検索してみた。すると、どうやら本人のものらしいフェイスブックが見つかり、見ていくと、本当に地方の商業高校が最終学歴であることが分かった。私は、当然大学くらい出ているものと思って訊いたりしたのを、悪かったなと思った。
今調べたら、フェイスブックは見つからなくなっていた。もう消息を知ることもないだろう。それだけの話である。
(おわり)