外国語学習伝(2)

 かくして私は無事に大学院へ入ったが、アテネ・フランセ通いは続けていて、四月からは、百地歌子先生という三十歳くらいの女の先生の、フランス語会話のクラスに参加した。それまで私はひたすら読解のためだけにフランス語をやっていたので、当初発音がひどく、ほかの人のを聞いて修正していったから、学期が終わったあとで先生から「最初、発音がひどかったけれど、だんだん良くなっていったのはなぜ?」と訊かれたくらいだった。百地先生はちょっと派手な顔だちの人で、予備校時代に英語を教わっていた長内先生に雰囲気が似ていた。しかしちょっとヒステリーで、受講生の出来が悪いと、フランス語で大声をあげることもあった。
 大学院へ入った当時、私は緊張と不安のため精神を病んでいたが、次第に慣れてきて治ってはいった。だがあの当時のあちこちでの不慣れ感というのはひどくて、それまで能を観たことがなかったので慌てて観に行って、分からないので内心でパニックを起こしたり、読んでいない有名な本が多すぎると感じて神田や高田馬場の古本屋街で多量にレヴィ=ストロースとかを買い込んでいて狂気のように読み漁ったりして、それで結果的には大して頭に入っていなかったり、実にひどいものだった。
 しかし、大学院で好きになった篁響子さんが英文学系の人だったために、私の、一時はフランスへ留学しようかとまで思い詰めていたフランス熱は冷めた。一年目は舛添要一先生の、フランス政治のゼミにまで出ていたのが、二年目からは元の道に立ち返って、英文学系の授業をとるようになった(この大学院はゼミ制度ではなかった)。だが一年目の四月に徹底的な厳しさで篁さんに振られてしまった私は、それでも諦めきれずにいて、その年は修士論文を書いていたのだが、それが書きあがって博士課程へ進学した四月に、篁さんが翌年からカナダへ留学すると聞いて、ほぼ三日くらいで、自分もあとから行くという恐ろしい決心をしてしまった。その顛末は「悲望」という小説に書いてある。
 そのために、奨学金を申し込んだり、カナダ大使館へ行って調べて提出論文を書いたり、TOEFLの試験を都合三回受けてようやく六〇〇点を越えたりと忙しく動きまわっていたのだが、私は英文科を出たのに英会話というのをちゃんとやったことがなく、英会話などというのは軽薄な女子学生が勉強するものだとバカにしていたから、懸命に市販の英語教材で聴き取りをやったりして、その夏休みには池袋の英会話教室ECCに通ったのであった。一九八九年のことである。
 あとになって思ったのだが、私は学部生時代、夏休みが苦痛だった。七月にはサークルの合宿などがあるが、それが終わって八月が、あまりに退屈だったからで、私としては、大学生というのは女子と一緒に遊びに行くとか楽しい夏休みがあると思っていたからなのだが、何のことはない、英会話学校の夏休みコースにでも行けばずっと楽しい日々を過ごせたのだし、アルバイトをしていたから金銭的に無理だということもなかったのである。
 そのように、それまで英会話学校へ行ったことがなかったから、実際に他人と英語で話すとどんな感じになるのかすらほとんど分かっていなかったのだが、一応言っておくと、九歳くらいまで人間は言語習得の特殊な本能を持っているが、それを過ぎると、外国語習得はほぼ先天的な才能の問題になる。できる人はちょっとやっただけで会話すらできるようになるが、私など二年近くカナダにいてこの程度である。柳家小三治が、字幕なしで洋画を観たいと言って英語の勉強をしていたが、普通の日本人があのスラングだらけの映画の英語が聞き取れるようになるには、十年くらい英語圏に住んで、ほとんど英語で生活でもしなければ無理だろう。
 さてECCでは、アテネ・フランセに比べたらからりとした雰囲気の中、一室で面接を受けて、会話の一番上のクラスに入ることになった。教師はキャシーというカナダ人のでっぷり太った三十前かという女性で、ほかに男子高校生が二人、六十がらみの男性が一人、三十代の高校教師とかいう女性が一人、四十くらいのやや美人の永野則子という謎の女性が一人、あと清滝美紀という二十代の女性がいた。この清滝美紀は、何だかECCの内部の人間めいた感じがあり、私が教室へ入って行った時、手前のスペースで男子高校生に何か相談していた。キャシーはヴァンクーヴァーから来たというので、私は来年ヴァンクーヴァーの大学へ行くのだ、と言ってワオ! などと言われた。
 もちろん全員が英語で話すのだが、一日聞いて、これで一番上のクラスなのか、と思ったほど、みなひどい英語だった。男子高校生二人は、アメリカへ短期留学したとかで、その後大学でもちらほら見かけるようになる、発音だけ英語風で、しかし語彙が乏しい連中で、むやみと「guy」という単語を乱発していたし、初老の男性はのちに国際情勢の話になると、やたらと「mainland China」と言っていた記憶がある。自己紹介で、私は正直に東大の比較文学の大学院生だと言ったのだが、あまりに英語が下手なので、英文科卒じゃなくて国文科だと思ったと、のちに清滝美紀に言われた。
 三週間くらい、毎日池袋へ通ったわけだが、涼しい夏だったようで、楽しかった。この楽しかったというのは、自分が東大院生だと知られると、周囲からちやほやされるという点も含めてである。だがアテネ・フランセではそういうことはなかったのは、あそこではその程度の学歴の人は普通にいたからである。私が文学専攻だと知った初老の受講生は、外へ出て歩いていた時話しかけてきて、三島由紀夫について、「私はね、あれは若い人を道連れにしたのはいけなかったと思う」などと弁じ立てていた。私はどちらかといえば三島の自決など愚劣な行為だったと思っているし、三島の純文学小説も評価していないのだが、昔からこういう風に三島の話を持ち出す人というのはいた。
 昼過ぎから始まって、終わるのが夕方だったから、三々五々みな池袋駅のほうへ帰途につくのだが、二週間目くらいのある日、高校教師の女性と清滝美紀が私の前を歩いていて、喫茶店へ行こうか、などと話していたが、清滝がふり向いて、一緒に来ません? と、私と、隣にいた男性に声をかけたので、ええいいですよと一緒に近所の喫茶店へ入った。たわいない話をした中で記憶に残るのは、清滝美紀が『赤毛のアン』が好きだと言い、私が、ああ私も好きですよと言ったことだった。
 授業中に、受講生だけで英語で話すという時間があって、みなが下手な英語で話しているのを聞いていたキャシーは、終わると、
 "Your English is so sloppy!"
  と叫んで、the とかa とかの冠詞は抜けているし、ひどい、と言った。もっとも皆も、自分らの英語はその程度だと思っていた。高校の先生が、「影響する」のつもりでやたらと「affect」と言っていたり、なかなか壮絶なものがあった。
 清滝とは次第に親しくなっていったのだが、この人は別に美人ではなく、割とにぎやかな人で、顔だちは群ようこみたいな感じだった。英語圏へ行ったこともあり、その時、自分のことを西洋人がじろじろ見る、と英語で話していたら、キャシーが、大げさな身ぶりで、
 'Because you are beautiful!'
  と言ったから、みなが大笑いして、清滝も苦笑しながら、
 'Thank you so much'
  と答えたことがあった。
 キャシーを交えて、昼飯をとりに行ったこともあったが、私は当時は盛大にタバコを喫っていたので、キャシーから、食べている間はやめてくれ、と注意されたりした。
 みな解放されて日本語で話していて、あまりにキャシーが置き去りにされると、清滝が通訳したりしていたが、そのうち、清滝が私を「悩殺」しようとしているといった言葉がふっとその口から出て、男子高校生の一人が、
 「えっ、悩殺しようとしてるの?」
 といかにも驚いた風に言って私と清滝を見たので、清滝が大笑いしていたが、キャシーはそれを見て、何かに気づいた様子だった。
  最後の授業のあと、池袋駅の地下で、清滝美紀はさりげない風に、電話番号を教えて、と言ったから、私は手帖に書いた。あちらも書いた。そのあと私が、二十五歳だと言ったら、ひどく大仰に、えーっ、同い年じゃない! と叫んだ。年下だと思っていたらしい。
 ほどなく、清滝から電話がかかってくるようになった。当時、まだうちの電話は黒電話だったが、大学を卒業するころ、友達と長電話することが多いので、母に頼んで親子電話を私の二階の室に引いてもらっていたから、それで話していたが、次第にあれこれと、大学で起きていることや、私が女性を追いかけて留学するつもりでいることまで話すようになった。

(つづく)