外国語学習伝(4)

 私の本と同じころに、女性のインタビュアーが、若手の女性学者にインタビューしたのをまとめた本が出ていて、それに吉川玲子さんも出ていたので、本屋で清滝にそれを見せたら、悲しそうな顔をして、 
 「吉川さん、かわいいよ、ストーカーがついたってのも分かる」
 と言っていた。
 清滝は、丸ノ内線に乗って池袋まで行って、そこから先の私鉄に乗ると言い、
 「池袋まで送ってきてよ」
 と遠慮がちに言うから、素直に一緒に丸ノ内線に乗ったが、何だか沈んでいる感じだった。池袋の駅へ着いて、改札の前に近傍の地図が掲げてあったのを、清滝は、
 「あたしこのへんに住んでるの」
 と言って指さしたが、私は無邪気に、
 「彼女(篁さん)の家はこのへん」
 と言って指した。清滝は改札を抜けて行ってしまった。
 翌日か、それとも二日くらいたってからか、忘れてしまったが、ようやく、清滝は私が好きだったのだと気づいて、夜になって電話して、
 「あなたは私が好きなんだよ」
 と言ったら、嬉しがって、
 「もっと言って、もっと言って」
 と言ったが、
 「だからと言って、もういっぺん会おうってわけにはいかないし」
 と言ったのを、あとになって、いや会おうよ、と言うべきだったかもしれない、と思った。
 もっとも、私がそう思ったのは、八月にカナダへ行って、清滝との音信が不通になってからのことで、それはむしろ、
 「もう一度会えばセックスができたかもしれない」
 という姓慾の意識から来るものであった。とはいえ、一年近く頻々と電話で話した清滝に、当時童貞であった私が、そうやすやすとセックスなどを想定するほどにすれていたはずはないので、いくらかの親しみは感じていたからそう思ったのだとはいえよう。
 実際、電話の時にも、清滝は、「わたし、イージーだったかもしれないよ」と、独特の言い方でそういうことをほのめかしていた。「なんであなたがそんなにもてるの」は、「あなたの良さが分かるのは私だけだと思っていた」という意味だと言ったが、その後私は、「この人の良さが分かるのは自分だけだ」と思う時は、ほかにも複数そういう人がいるという原理を発見することになる。また以前電話中に、何か言われて私がしょげた時、清滝があわてて、「あなたは、憎らしいところが…」と言いかけて口を濁したことがあったが、それは「いいんだから」ということらしいということは、当時から分かっていた。
 その年修士論文を出した梅木は、熊野の民俗学者を扱っていて、私と同期の水木香さんは、やはり修士論文佐藤春夫を扱っていたので、その年七月に、研究室旅行で熊野へ行くことになっていたが、参加するつもりでいた松林たまえは、腎盂炎になってしまい、参加取りやめになった。電話してきて、「×××さん、あたし腎盂炎になっちゃった」と泣き崩れた。
 その熊野旅行では、はた目には、私と吉川さんがいつも一緒にいるように写っただろう。だから帰ってきて、教授たちが、私がカナダから帰ってきたら結婚するだろう、と研究室で話していて、それを耳にした松林たまえは、私と、ソ連へ留学する水木さんの送別会で、「熊野旅行で吉川さんとの仲は進みましたか」などと言い出して半狂乱になっていたのも無理はなかった。もっとも私がカナダへ行ったあとは、今度は私と同期だった仏文科出身の春日部俊に迫っていた、というのは、二年後、帰国してから聞いた話だが、その時には彼女はもう秘書は辞めていた。
 清滝美紀には、カナダから手紙を出すからと言ったのだが、頑として住所は教えてくれなかった。これで縁を絶つのがいいと、いさぎよくも考えていたのだろう。
 その年の夏はものすごく暑かったが、それでも最近の地球温暖化によるとされる暑さほどではなかった。八月の九日に私はカナダへ向けて出発することになっていて、何しろそれまで実家を離れて暮らしたことがなかったから、不安で、一週間くらい前からまともに本を読むとかいうことが手につかず、自転車に乗って自宅から遠くまで走ったり、水木しげるの『ヒットラー』みたいなマンガを買ってきて読んだりしていた。
 出発の日の昼前に、祝電が届いた。それを、母が率先して開けてしまって、大型のオルゴール電報で、開くと「いい日旅発ち」が流れるのであったが、「まあ、これ開くと音楽が鳴るんだわ」とか言ってやたら嬉しそうにしている。何で人の電報を勝手に開けるんだと少し苛立ちながら受け取ると、清滝からで、「元気でね ミキ」とだけ書いてあった。もちろん、住所は書いてなかった。私はそれでちょっと嫌な気分になった。うちの母などは、あの時々電話で話していた「彼女さん」からの電報だと思っていて、それでやたらと嬉しがっているのだなと気づいたからである。そういうことより、勝手に開けることのほうが問題なのだが、その辺は母はこの当時は鈍感だった。

(つづく)