私はそのことは誰にも秘密にしていたから、清滝にだけ話していたことになる。要するに、あちらの「好意」に甘えていたのである。清滝はまだECCと関係していて、キャシーとも話すことがあったようだが、キャシーに私のことを話したら、「彼はあなたを利用している」と言ったという。あながち間違いではないだろう。
当時、私は博士課程一年生で、大学院の修士課程一年には、室田教授の娘さんの室田淳子さんや、女子大時代に小説で賞をとった赤間真由美、アメリカの大学を出たあと画家の助手を半年していて大学院に入って来た城田優子など女子が元気よく多士済々で、私も室田教授の授業に一緒に出て、彼女らの才能に感心していた。また私の一つ下の梅木猛は、民俗学者についての修士論文を書いていて、意気軒昂だった。私の三学年上の吉川玲子さんは、私が修士一年の秋に修士論文を新書として刊行して話題になり、「売れっ子」状態だった。そういうあれこれを、私は全部清滝美紀に話したから、当時私が置かれていた実情を包み隠さず話していた。つまりほかの誰も知らないようなことを、自分が所属する大学とは関係のない清滝に話していたわけである。
秋から私はアテネ・フランセの英会話コースに通うことになったが、以前のフランス語のクラスに比べて、若い女性が多いのが英会話コースの特徴らしく、早稲田でベケットの研究をしていて、アイルランドへ留学していたという大学院生の五木田さんとかがいて、楽しい雰囲気ではあった。もっともこの人は、四つも年上だったし、休憩時間とか終わってからの時間に私を寄せ付けるといった雰囲気はなかった。私は依然として清滝美紀がどこの大学を出たのか知らず、訊いても、「大学なんか行ってないのよ」と言っていたが、まさかそんなことはないだろうと思って、京都にいたというから佛教大学とかかな、と考えていたし、そういう清滝にとっては東大の院生である私が輝いて見えるようには、五木田さんにはそれは特に価値はないのだということを感じた。五木田さんは、これは授業中に英語で話したのだが、司馬遼太郎が「街道をゆく」でアイルランドへ行った時案内をしたそうで、私は帰りに御茶ノ水駅前の丸善で『街道をゆく 愛蘭紀行』を買って帰ったほどだったから、私などよりよほどきらびやかな人で、実際五木田さんはその後早稲田の教授になった。
清滝は、ECCの授業の最初のほうで、私が「妾と愛人は違う」と言った時、あっ、この人は面白い人だと思ったと言っていた。私はそれまで、あまりいい意味で「面白い人」だと思われていると感じたことはなかったが、私が万事言うことがずれていたりしたのは学部生の頃のことで、確かに二十五歳になっていた当時は、少しは面白い人になっていたかもしれない。
そのうち、年が明けて一九九〇年になった。その日は、もしかしたら私の帰りが遅くなって、外で夕飯を食べて来たのだったかもしれない。帰宅すると、母から、清滝という人から電話があった、と言われた私は、妙に興奮して、二階へ階段を上がっていくうちに、ペニスがむくりと頭をもたげてきた。当時、確か小学校入学の時に買った私の机は、窓に向かって置かれていたが、座ってすぐに電話のダイヤルを回して、清滝が出て話を始めると、ほどなくズボンのチャックを下すと勃起したペニスを取り出し、たちまちオナニーを始め、話を続けながら何喰わぬ顔でティッシュで飛び出た精液をぬぐったのだった。
これは、相手の同意を得ないテレフォンセックスである。では、私は清滝が好きだったのかといえば、それはない。むしろ、あちらが私に恋愛感情があることを私の性欲が察知した、とでも言うのが正しいだろうが、それはごく自然な行為であり、要するに男が、自分に好意を寄せている女と、自分の側には恋愛感情なくして寝てしまうということを、電話越しにやったということになるだろう。かすかにおぞましい感じはしたが、結局私と清滝の関係はずっとそんなものだった。私は大学院へ入ってから、自室にテレビを入れてもらい、ビデオデッキをつないで、深夜になると近くのビデオ店へ行って二本のアダルトビデオを借りてきて、三時間くらいかけてオナニーをするといった生活をしていたが、その時のオナニーは、ふだんアダルトビデオでしているのよりずっと爽快だった。しかし私の鈍感さは、その時点でも、清滝が私を好きだということに気づかなかったことである。
十二月でアテネのクラスは終わって、一月から三月のクラスに出ると、某大学の院生でシェイクスピアをやっている波潟さんといった女性がいて、こちらは少し年下のようで、面白い人のような気がして、少し話したりしたが、最終的には面白いというよりは変わった人だった。「ナポゥレオン」という発音をしたので、それでいいのかなと思って調べたりしたが、驚いたのは、日本人は先の戦争についてどう考えているかということを英語でスピーチした時に、波潟さんが「日本人には「ミズニナガソウ」という思想があるので」と、そこだけ日本語で発声したことで、これには外国人の先生が目を白黒させていた。
松林たまえについては、清滝に対してのようにそう鈍感ではいられなかった。松林は、前の年から研究室の秘書になっていたが、若くて女子大を出てキャピキャピした娘が、東大の研究室秘書になったため、舞い上がってしまったらしかった。私は翌年には修士論文を本にすることになっていたし、松林はヴァレンタイン・デーに手づくりのチョコレートを自宅へ送ってきたが、途中でばらばらに砕けていた。当人も何度か電話をかけてきて馴れ馴れしい感じで話したりしていた。私はその様子も清滝に話していたが、松林はある日の電話で、一時間ほど話してから、「×××さん、私あなたを愛してるわ」と言い出し、私は相当慌てたのであった。もっとも松林が言い寄ったのは私より梅木のほうが先で、梅木に振られて私へ廻ってきたものらしかった。結局その電話はうやむやに終わったのだが、清滝にその話をすると、「そんなことになってるんじゃないかと思ってたわ」と言うのだった。当時私は、これから留学する人間はもてる、という仮説を立てていて、これからいなくなるから価値があるように見えるのだと思っていたが、あながちそれも間違いではないだろう。それからも電話をかけてきて、寝ながらハサミで手首を切って死のうと思ったとか言って脅していた。清滝は、「おかしいなあ、なんであなたがそんなにもてるの」と苦笑しながら言っていた。
清滝が私の話を聞いて思っていたのは、私は篁さんを追って留学すると言っているけれど、すでに先輩の吉川さんが好きで、帰ってくれば結ばれるんじゃないかということ、あとは専門から私と清滝の間では「アラビア語」と呼ばれていた城田優子もちょっと好きだ、といったことで、私は内心で、当たっているとは思ったが、もう後へは引けないという感じだった。
清滝自身は、つきあっていた男に振られたところだったらしいが、「駄目だと思っていた」のにつきあってくれたのが、自分が海外へ行くことになり、涙ながらに空港で別れたけれど、手紙のやりとりで食い違っているうちに終わってしまったと言って、その話を私と篁さんの話に結び付けて話すのだが、こっちはそもそもつきあえてもいないんだから無理があるなあ、と思った。
「そんなに深いつきあいだったの?」
と訊いたことがあり、
「普通そういうこと訊くか?」
という答えだったから、肉体関係があったのだろう。
清滝には姉がいて、甥だか姪がいたから、その子を連れて東大の研究室に行って、私にもてあそばれた、と言おうかなどという冗談を言っていた。
四月から、アテネ・フランセで、別の西洋人講師の英会話の授業に出ていたが、ここには、早稲田の英文科の女子学生が出席していて、話をするようになったが、ちょっと軽率な子で、当時早稲田に松原正という、福田恆存の弟子でぎょっとするような時代錯誤なことを言う保守派の英文学者がいたのだが、その子が松原の話をして、私が、ああ知ってるよと言うと、えっ松原知ってるんですか、あの人、「右」ですよ、と言うのだが、私は内心で苦笑して、それまで政治的な話はしていなかったのに、もし私が「右」だったらどうするんだろう、と思ったが、その後、この類の人にはしばしば出くわす。
六月のはじめに、私の修士論文を著書にしたものが刊行された。だが、それに対する反応は極めて鈍く、私は失望することになるが、その月の終わりに、お茶の水で清滝美紀に会うことにしていて、夜になって、お茶の水の丸善の上にある料理店で食事をとったが、外へ出る時に私がその看板に当たってしまった。それを見ていた清滝は「不器用な人」と言った。
(つづく)