外国語学習伝(1) 小谷野敦

 私が大学に入った時、第二外国語として選んだのはドイツ語だった。当時私は、本来の志望だった文学研究からちょっと逸れて、オペラ研究をしたいなどと、楽器もろくにできないのに無茶なことを考えており、オペラの本場といえばイタリアだが、当時はまだ第二外国語にイタリア語がなかったのでドイツ語にした。
 ーーというのはウソで、実は高校三年の一九八〇年にカール・ベームウィーン国立歌劇場を率いて来日した際、「フィガロの結婚」をテレビで観て感激したためのオペラ研究だったのだが、私は「フィガロの結婚」がイタリア語であることも知らず、歌手も指揮者もドイツ人だからドイツ語だと思い込んでおり、クラシックの作曲家といえばドイツ人が多いからというのでドイツ語を選んだのであった。しかし、ドイツ語クラス四組の担任はワグナー研究の高辻知義先生だったし、そう間違った選択でもなかった。
 ところが、そのドイツ語の、あらゆる名詞が男性・中性・女性に分けられるとか、動詞が目的語に対するのに三格と四格があるとか、果ては動詞が頭と本体に分離するとかいうあたりの難しさに、要するに私は挫折したのであった。東大では、一学期に文法の説明をして、二学期からは本格的な文章を読ませるという秀才用の教育をしていたから、脱落者がドカドカ出ていた。私は第三外国語にフランス語やスウェーデン語をとっていたが、それは同じクラスにいた都竹さんという女子と一緒にいたかったからという情欲的な理由からに過ぎなかったが、フランス語を教えていたのは、当時はまだ非常勤講師で、翌年から東大助教授になった竹内信夫先生で、これは二学期になるといきなりル=クレジオを読ませたため、たちまち脱落した。
 とにかくドイツ語の成績はひどくて、三年生になって英文科へ進学したら、中央大学から当時ソシュール研究で有名だった丸山圭三郎先生が文学部へフランス語を教えに来ていて、これに出たら、「Qu'est-ce que le langage?」という、ソシュールとかプリエートとかバンヴェニストとかの文章をご自分で編纂した教科書を使っていて、何しろ当時はニューアカ・ブームの真っただ中だったから面白く、そこから第二外国語をフランス語に転向したのである。第二外国語の転向といっても、要するに大学院へ行く時に二語として受ける外国語のことである。なお丸山先生の授業でテストを受けたら、マドレーヌがどうとか書いてあって、半分くらいは訳せた気がするのだが、それはもちろん『失われた時を求めて』の最初の部分で、私はまだこの小説を読んでいなかったから、この試験の時にこの有名なマドレーヌのところを初めて読んだことになる。
 卒論を書くのが楽しかったので、英文科の院試も受かるつもりで受けたら落ちてしまい、たいそうショックを受けた私は、浪人してもう一度受けるつもりで、タバコをやめ、駿台予備学校のフランス語の授業をとることにした。というのは、精神的ショックから予備校時代へのノスタルジーに惹かれた結果だが、週一回、夕方にニコライ堂の方角にある校舎へ行って、当時五十代くらいだったんだろうが、私には老人に見えた、しかし元気が良くて、教壇をどんどーん、と足で踏み鳴らして、「私は若いころ東京へ出てきて、誰も教えてくれる人がいなかったから、ありとあらゆる詐欺に引っかかりましたよ!」などという先生にフランス語を教わった。夏場だったから、四時ころからの授業が終わって外に出ると、夕暮れ時になっていて、ふとこれから自分はどうなるんだろうという不安に胸を締め付けられるような気分になり、千代田線で自宅へ帰ったりしたものだった。
 あとは、その翌年翻訳が出るマリオ・プラーツの『肉体と死と悪魔』の英訳の『ロマンティック・アゴニー』というのを買ってきて、これはフランス語の引用が原文のまま載っていたので、英語とフランス語両方勉強できるというのでせっせと読んでいた。しかしほどなく、駒場のほうにある比較文学の大学院を受けたくなって、秋に受験したら合格した。合格発表を見てすぐ生協へ行ってマイルドセブンを買ってきて半年ぶりにタバコを喫い、以来二〇一七年にやめるまで三十一年間喫い続けることになる。
 秋からは、場所としては駿台予備校と同じお茶の水から行くアテネ・フランセで、東大教授で、日本人で初めて、フランスで博士号をとったという福井芳男先生が教えるフランス語講読に通い始めた。福井先生は当時五十九歳で、あと一年で定年だったが、私はそんな偉い人だと当時は知らず、博士論文も日本では公刊されていないのみか、文学に関する著書も日本では一つも出していないという変わった人で、博士論文は十七世紀のフランスの詩だったらしい。
 こちらは秋から冬にかけてだったから、終わるころにはすっかり暗くなっていたが、人気講師らしく、駿台の時に比べると教室にびっしり人がいる感じで、年配の受講者が多いイメージで、しかし私が気を引かれる若い女性などはおらず、のちに英会話などをアテネで教わった時のように、他の受講者と親しくなるということはなく、やや寂しかった。テキストはアルベール・ソブールの『フランス大革命』だったようだが、途中からだったし、翻訳を見るなどということはしなかった。当時は、大学院入試のためだから、読んで訳することができればいいと考えていたから、発音はほとんど考えず、名詞の男性女性などもまるで覚える気はなかった。フランス語文を読んで訳すだけなら、覚える必要はないのである。 
 福井先生は明るい人で、「えーっとこれは何て訳すんだっけな」と言って、受講者が「ザッキリン」などと言う。「いや、それは・・・」と言っていると、別の受講者が「ぞうきばやし」と言うと「それだ!」と叫ぶという具合で、あとから考えると、いかにも洒脱なエッセイ集とか出しそうな人柄だったから、なんでああ著作がなかったんだろうと思う。
 あるいは、「耕耘機」の「耕耘」という単語に当たる語が出た時も、「えーと、これは何て言うんだっけな」と先生が考えていると、前のほうにいた年配の男性が「コウテンですよ、先生、それはコウテンというんです!」と叫んで、何となく流れてしまったが、私はあとで、「耕耘機」の「耘」を「転」からの類推で「コウテン」と読んでしまったのだと気づいて、「転」は本来は「轉」だから、「転」にしたのが災いしたなあ、と考えたりしたが、その後もちらりと「コウテン」と読む人がいた気がする。
 あと悔しかったのは、アメリカの独立の話が出てきて、「アメリカの独立って何年だったかな」と先生が言ったので、私はパリ条約のことを考えて「一七八二年です」と言い、「ああそう」と言われたのだが、その少しあとに「一七七六年に独立」と出てきて、先生が「ああ、じゃあさっきのは(違うな)・・・」と口を濁したことで、それはもちろん独立宣言の年だから、私は悔しく思いつつ、ちょっと、先生モノを知らなすぎじゃないかと思ったりした。
 それから先生は、フランス語のテキストみたいなものについて「こういうのはオーメ社へ行けばある・・・・・」みたいなことを言っていて、ほかの、前からいる受講者はそれが分かっているらしかった。授業が終わると何人かの受講者が先生に質問に行って、それらはいかにも「常連」みたいな感じで、先生はにこやかに答えており、初めての私は何だか近寄りづらいものがあった。最後の授業の時だったか、その「オーメ社」について知りたくて、「あのう、フランス語の本を売っているところというのは」と訊きに行ったら、水道橋の駅の裏手にある「欧明社」という本屋のことを教えてくれた。それで一度くらいそこへ行って、フランス語のペーパーバックで、サン=テグジュペリとかジャリの『ユビュ王』とか変なものを買ってきたが、その時、先生がちょっと私には冷淡だなと感じたのだが、だいたい私は年長の男の人にかわいがられるタイプではないし、そういう中高年男性はだいたい女性をかわいがることが多いものだ。私の側にも、妙なこわばりがあったのかもしれない。あと、東大の教授でアテネ・フランセラジオ講座で教えている人には、東大生を嫌っている人もいて、私はもちろん「東大生で」と名乗ったわけではないが、そんな雰囲気があったのかもしれないし、著書がないということで割と教授を見下す癖が私にはあって、そういうのもにじみ出ていたのかもしれない。

(つづく)