1975年3月といえば、私は小学校を卒業して中学に入る直前だったが、調べるとその頃の夜8時から、「落下傘の青春」という単発ドラマがNHKで放送されていた(矢代静一脚本、財津一郎、山本學、仁科明子主演)。両親が観ていたのを、私は居間で雑誌でも読みながらであったか、ちらちらと目にしていた。男二人が下宿している外の道を、暗くなってから若い女が歌を歌いながら通るが、毎日軍歌を歌っている。「見よ落下傘」という歌詞が記憶に残った。若い男二人は興味を持って、ある夜、女が通りかかったところを、ガラリと窓を開けると、女がびっくりする。そんな場面が記憶に残った。 このドラマの原作は交通事故で夭折した戦後の作家・山川方夫の短編「軍国歌謡集」である。私はそれを読んだはずだが、あとで勘違いをして、原作を広津和郎の長編『風雨強かるべし』だと思い込んでいた。というのは75年の1月にそれを「銀河テレビ小説」でドラマ化していたので、取り違えたわけだが、そもそも「見よ落下傘」は「空の神兵」という軍歌で、太平洋戦争中の1943年の、スマトラ島パレンバンへの空挺作戦の成功を記念して作られた歌で、『風雨強かるべし』は昭和8年の作だから、おかしいので、調べ直して気づいた。
原作では、娘は毎日別の軍歌を歌っており、最後に「空の神兵」を歌って通ることになっていたのを、ドラマでは毎日「見よ落下傘」と歌っていることにしたのである。私がこのドラマを記憶していたのはその歌が素晴らしいと感じたからである。なお「軍国歌謡集」は生前未発表で、没後の全集に初めて発表され、新潮文庫の『海岸公園』に収められている。
私が軍歌に開眼したのは、今世紀初めころ、NHKで川柳川柳の、軍歌をたくさん歌う落語「ガーコン」が「笑話歌謡史」として放送されたのを聴いたあとで、全5巻のCD「軍歌」を買ってきて繰り返し聴いた。もちろん軍歌の思想は別にして音楽として聴いたのだが、中でも「空の神兵」は、日本の軍歌離れした名曲だと思った。43年当時、この歌を主題歌とした同題のドキュメンタリー映画「空の神兵」が作られており、落下傘部隊の訓練の模様を描き出しており、DVDにもなっている。
「空の神兵」の曲は高木東六だが、この曲のプロデューサーは上山敬三(1911―76)という、日本ビクターのレコード部に勤めていた人で、早大英文科を出て、英文科の教授で作家でもあった谷崎精二、つまり潤一郎の弟の長女の恭子と結婚した人だということを、精二の文学仲間だった尾崎一雄の回想記『あの日この日』を読んでいて発見した。谷崎精二は潤一郎とは仲が悪く、研究も進んでいないが、恭子の下に長男の英男、次男の昭男がおり、昭男は保田與重郎に師事し、相模女子大学教授を務め文芸評論家として活躍した。
さて上山敬三には一冊だけ著書がある。『日本の流行歌』(1965)という早川書房から出た新書判で、「空の神兵」についても詳しい記述がある。梅木三郎の作詞だが、高木の最初の作曲に上山は「メロディーもすばらしかった」が「職業歌手が一人でうたうのにはよいが、一般人が大勢でうたうのは不向きだ」と断じ、作り直しを依頼した。高木と激しい言い合いになり、「やがて氏は、グヮンと両の手で不協和音を出し、バタンとピアノのふたをした。最高の怒りの表現である。部屋にはほかに人がいない。気まずい空気が充満した。高木氏は楽譜をカバンにしまいこんで出て行った」。
だが数日後に、高木は新しい曲を作り、「出来た、出来た」と言って笑いながら入ってきたと書いてある。
(付記:「空の神兵」の作詞者は梅木三郎とあるが、これは新聞記者だった黒崎貞治郎の筆名だそうである)