耕治人と川端康成と私道通行権

 「そうかもしれない」などの「命終三部作」私小説で知られる耕治人は、川端康成に師事していた時期があり、しかし川端の妻の妹・松林から土地をあっせんされたものの、トラブルになり、被害妄想から、川端に土地をだまし取られたと思っていて、川端没後に発表した私小説で川端の名を秘してそれを書いたら、「群像」の月評で平野謙藤枝静男らが話して、この名前が書けないことが問題だ、これは川端だと藤枝が言った。これを読んだ立原正秋は、藤枝に電話して訊くと、あれは平野が言ったことで、平野から、藤枝が言ったことにしてくれと頼まれてそうした、と白状した(平野と藤枝は高校以来の友人)。立原は、卑怯だと言って怒り、それを書いて平野とは絶縁した。

 一方、川端研究者の川嶋至は「誰でも知っていたこと」として、川端が耕をだましたのは事実だと「文學界」に書いた。だが川端家と親しい武田勝彦が「誰も知らなかったこと」として反論し、これは耕が民事訴訟を起こし、私有地の通行権の問題に過ぎないことが明らかになり耕が敗訴していると、訴訟記録を示した。川嶋はこの件で文藝雑誌からパージされ、以後文藝誌には書かなくなり、著書も出さないまま死んだ。

 ところで私道通行権というのは、法学のほうでは割と問題になることで、岡本詔治『私道通行権入門』(信山社、1995)のような著述もあり、「・・・に過ぎない」で済むほどのことではなかったようである。

小谷野敦