幕見席(1)

 中学三年の川波真佐子が通っている公立中学校は、ちょっと見には分からないが、真佐子の家からは少し高いところにあった。だから、学校まで歩いていると、途中でしんどくなったり、汗をかいたりする。だが、それがちょうどいい運動になっているらしかった。

 月曜日になって登校した真佐子は、同級生たちが、まるで子供のように思えてしょうがなく、土曜日が休みで良かった、と思った。

 というのは、金曜日の夜、真佐子はショッキングな体験をしたからである。NHKの特集番組で、自分と同年配の丸川円子(えんこ)という歌舞伎役者が、歌舞伎の舞台で「連獅子」という、二人で長い鬘をつけてそれを振り回すさまを見て、すっかりその「円子さま」に惚れ込んでしまったからである。

 「円子さま」は、丸川虎之助という、昔一世を風靡した歌舞伎俳優の孫だそうである。けれど、父親は歌舞伎役者ではなくて、東大を出てエリート銀行員をしていたが、三十歳で一念発起して歌舞伎の世界へ入った。そのため、虎之助の名は、前の虎之助の弟の息子が継ぐことになり、円子の父は丸川楽章という由緒ある名を名のった。けれど、幼いころからその跡継ぎとして舞台へ上っている円子は、いずれ、五代目丸川虎之助になるだろう、と思われているというのだ。

 自分と同じくらいの、その円子というちょっと変わった芸名の男の子に、真佐子は生まれて初めての恋みたいなものをしてしまったのだ。それまでにも好きになった男の子はいたけれど、そんなのは間違った思いだったと思えるほどだった。

 番組は、まだ小学生の弟は自室でゲームでもして遊んでいたけれど、父と母は何となく観ていた。けれど、真佐子は、自分が興奮していることを悟られてはいけない、と途中で思い、素知らぬふりをして、番組が終ると自分の部屋へ駈け込んで、スマホで次から次へと情報を検索した。円子さまだけじゃなく、歌舞伎全般について、歌舞伎座とか松竹のサイトを見て回ったが、途中でくらくらしてきて、新しいノートを一冊下ろして、それにメモをとりながら見て行った。

 翌日も、起きて朝食を摂るとすぐ自室にこもって「歌舞伎しらべ」を始めたのだが、ますます、これは友達にも家族にも秘密にして「ファン」をやっていかなければならない、という信念が固まっていった。何しろ歌舞伎という、江戸時代以来の伝統のある深みと厚みのある世界だから、自分がちゃんと把握していないうちに他人に土足で入ってこられるようなことにはなってほしくないからだった。

 歌舞伎役者の名跡とか屋号とか、覚えなければならないことが山積みになった。あるいは、これはちゃんと上演を観ながら覚えていくのが筋じゃあないかとも思ったのだが、そこで真佐子は妙なことに気づいた。

 YouTube に載っている歌舞伎の演目が少ないのだ。もちろん著作権があるからではあろうが、落語はないものがないというほどアップされているのに、歌舞伎は少なすぎる。それに、それなら有料レンタルとかサブスクで配信されているものが充実しているかというとそんなこともない。有料で売っているDVDもあるが、これも全体からするとだいぶ数が少ない。

 ということは、これから歌舞伎を勉強しようという者は、まるで二十世紀のように、せっせと劇場へ足を運んでちまちまちまちま十年、二十年かけて学んでいかなければならないということなんだろうか。

 真佐子の家には、ラムダというメスの柴犬がいた。昔日本で打ち上げに何度も失敗したラムダ・ロケットという、ギリシャ文字から名前をとったロケットがあって、それからとったのだが、真佐子はラミーと呼んでいた。

 日曜日に真佐子がラミーを散歩に連れて行って、近所の公園に入ったら、ベンチに七十歳くらいのおじいさんが、きっちりしたズボンにベルトを締めて座っていた。そのおじいさんが、どうもラムダと目が合ったらしく、ラムダが「くうん」と言ったから、真佐子はおじいさんの隣に座った。

 「メスの子だね」

 とおじいさんが言った。

 「そうです。ラムダっていいます」

 「昔そういうロケットがあったなあ」

 「あっ、そうなんです、そのロケットにちなんで・・・」

 おじいさんは、真佐子のほうを見て苦笑しながら、

 「でもあのロケット、いっつも打ち上げに失敗していたよ」

 「ええ・・・。でも、何度失敗してもくじけない、という精神を表して・・・」

 「それはいいねえ」

 おじいさんは嬉しそうに笑い、ラムダの頭を撫でた。

 真佐子は、いいおじいさんだと思って、思い切って、

 「あの、歌舞伎とかご覧になりますか」

 と訊いてみた。

 「ん?」

 とおじいさんは目を細めて、

 「テレビでは時々観たなあ。忠臣蔵とか・・・」

 と言って、何か思い出そうとしていたが、急に、

 「そうだ、「お富さん」という歌があるよ。もう私が子供のころにはやった歌だが・・・」

 と言い、

 「粋な黒塀、見越しのまァつに・・・」

 と歌い出した。真佐子は、

 「どんな話なんですか」

 と訊いてみたが、あまり要領は得なかった。帰宅してから「お富さん」で検索をかけたら、「與話情浮名横櫛」という歌舞伎の一部だと分かった。幸い、これは古い映像がYouTubeにあったから、それを観ることができた。

 それは

(お妾さん)――

 になった女の話だったが、歌舞伎といえば、

「芸者」

 とか

花柳界

 とか、中学生の女の子が足を踏み入れてはいけない世界であるような気もして、ぽっと顔が火照ったりしたが、本当にマズいものならNHKで放送したりしないし、歌舞伎役者が人間国宝になったりしないだろう。もっと勉強して、これはまずいと思ったら引き返せばすむことだと思った。

(つづく)