音楽には物語がある(66)ラップは詩か  「中央公論」6月号

 『東京都同情塔』で芥川賞を受賞した九段理江が、受賞インタビューで「音楽が好き」と言ったので、おっと身構えた。音楽が嫌いな人というのはめったにいないので、この言葉には色々な意味がある。九段の場合、「ヒップホップが好き」と言っていたから、その意味かな、と思った。ざっくり言って、ラップのことである。『ユリイカ』に発表された短編「Planet Her あるいは最古のフィメールラッパー」では、口の中で韻を踏む言葉を探す主人公(作者自身)が出てくる。しかし、九段のデビュー作「悪い音楽」は、音楽教師が主人公で、クラシックからヒップホップまで様々な音楽が出てくるから、そのように幅広く好きということかもしれないし、先の短編では、主人公はiPODに音楽を入れて出先でも聴いているから、それも、特別に好きという意味かと思える。私は出先で音楽を聴きながら、というのはやらない。外を歩きながらイヤホンとかで音楽を聴いている人がいるが、交通安全的に危険である。家にいても、音楽を聴きながら仕事をするということは、若い頃はできたが、三十過ぎてからは音楽に聴き入ってしまってできなくなった。

 ところで、私はジャズから後の新しい音楽は苦手である。ラップに至っては、嫌いといってもいい。日本の近代詩というのは、西洋の詩を真似して作られたものだが、韻律がないから、「詩のようなもの」になっている。島崎藤村などの新体詩は七五調の音数律で作られていたが、いつしか廃れてしまった。加藤周一らマチネ・ポエティックの詩人たちは、日本語の詩で韻を踏む実験をした。その成果の一つが、四つも曲がついたことで知られる加藤の「さくら横ちょう」だが、(中田喜直別宮貞雄、神戸孝夫とあと一人)私は昔、別宮作曲のものを鮫島有美子が歌うのを何回も聴いた。味わいがあるが、詩としては後に続く人が出ないのはやむをえないだろう。

 九段理江には『しをかくうま』という小説もあるが、やはりラップを詩の一種と見ているのだろうか。私はつらつら考えたり、知り合いの詩人の意見を聞いてみたりしたのだが、ラップは詩ではないという結論に達した。

 西洋の詩は、弱強五歩格(アイアンビック・ペンタミータ)など、ある程度の長さの詩行の後ろに韻がついているが、ラップの韻は、せわしなく次から次へと続き、特にそれを即興でつけていくところに人は面白みを見出しているらしい。西鶴の、俳句興行で一昼夜に千句の俳句を詠むみたいな、ないしは連歌のようなところがある。連歌などはちゃんと文学扱いされているが、私は、結局は遊びだろうと思っている。

 というか、ラップに近いのは、詩よりも香具師の口上だろう。「けっこう毛だらけ猫灰だらけ」といったあたりだ。ラップの場合はもうちょっと上品だが、その代わり聞いていてうるさい。結局は、好みの問題でしかないのかもしれない。私が年をとったせいではない。私は若い頃から、こういう新しいポップ音楽は苦手だった。

 その若い頃、天沢退二郎らが、中島みゆきの歌を礼賛し、それを「詩」として評価しようとする動きがあったが、それに対しても、中島の歌は曲と合わせてのものであって、単に詞だけ取り出したら詩として評価することはできないという声もあった。その一方、ボブ・ディランノーベル文学賞を受賞しているし、過去の民衆詩は、西洋でも東洋でも、音楽を伴って歌われていたという歴史もある。難しいところだ。

小谷野敦