音楽には物語がある(46)小林幹治と「みんなのうた」 「中央公論」10月号

 前回触れた小林幹治という作詞・訳詞家については、ご子息で俳優・演出家の小林顕作さんに連絡をとって、いろいろご教示をえた。小林顕作という人はそれなりに知られた人で、私は毛皮族という劇団の「天国と地獄」という演劇をDVDで観たが、そこではプルートーの役で出演していた。

 さて、小林幹治(敬称略)は、一九三三(昭和八年)七月二十七日、埼玉県深谷の生まれで、私の父と同年である。「かんじ」だが「みきはる」とも読む。没年月日は二〇〇四年五月三十一日で、七十歳だった。学習院大学文学部英文科卒で、北区に今もある野ばら社という出版社の創業者である志村文蔵の息子の志村建世と同じ学科の同期生だったらしい。建世氏は今もご存命でブログをやっておられるので、小林幹治の卒論が何だったかお訊ねしたが、息子さんともども、分からないとのことだった。志村さんご自身の卒論は陶淵明とワーズワスの比較だったという。小林幹治の卒論も恐らくは詩についてのものだったのだろう。卒業後、志村さんはNHKに、小林幹治はカッパ・ブックスの光文社に入る。神吉晴夫カッパ・ブックスを創刊したのは一九五四年だから、ちょうどそのあとあたりになるが、小林は、野ばら社から歌や詩の編纂書を刊行している。『世界歌曲集』志村建世共編(一九五八)、『伊藤左千夫歌集 野菊の墓・語録』編(同) 『若山牧水歌集』布施益子共編(一九五九)『青空歌集』林文夫共編(一九六一)がある。野ばら社は今でもこういう愛唱歌集などを刊行している。

 さて小林はそのうち、独立して、ネームプレートを作る小林製作所を設立し、友人の志村が「みんなのうた」を担当していたので、一九六二年からその手伝いを始めた。これについては小林自身のノートも見せてもらったが、それを記録と照合すると、

 一九六二年九月 川で歌おう(ラサ・サヤン)インドネシア民謡

  十月―十一月 サモア島の歌 ポリネシア民謡

  十一月 踊ろう楽しいポーレチケ ポーランド民謡 

  十二月-一九六三年一月 駅馬車 アメリカ民謡 

一九六三年三月 春が呼んでるよ(ヤシネック) ポーランド民謡

 四-五月 赤い河の谷間 アメリカ民謡

一九六四年八月 海のマーチ 「コロンビア・大洋の宝」デイヴィッド・T・ショー

 十月 たのしいショティッシュ スウェーデン民謡

 これらは「みんなのうた」のもので、訳詞だというから、英語版から小林が自由に訳したということだろうが、かなり有名な作品も入っている。「駅馬車」「赤い河の谷間」もそうだし、「たのしいショティッシュ」の、ショティッシュフォークダンスの一種のことらしいが、歌詞を聞いてもそれは分からないのに、なぜか聴いていて楽しい歌である。「ララ真っ赤な帽子にリボンがゆれてる」というやつで、これほど有名な作詞をした人なのに、これまでちゃんと調べられていなかったのである。

 ほかに、

一九六三年十二月 みかん畑で  ポーランド民謡

一九六四年六月 こんにちはやまびこさん 

ターナー作曲 「聖者の行進」がこのあとにあるが、これらは「みんなのうた」ではなかったらしく、NHKの番組で何度か使われたようで、九月の「リズムにのって」(弘田三枝子ほか)あたりだろうか。

 十二月から六五年一月が「陽気にうたえば」メキシコ民謡

一九六五年三月 ゆかいな牧場(イーアイ・イーアイ・オー)アメリカ民謡(「いちろ

うさんのまきばで」で始まるもの) 

  四-五月 輪になっておどろう(イレ・アイエ)インドネシア民謡       

 ところが、これっきりで小林は訳詞をやめてしまったらしい。息子さんによると、人気があってあれこれ言ってきたので、怖くなってやめたという。もしかすると、表面に出ることの苦手な人だったのかもしれない。