音楽には物語がある(37)演歌、民謡、子守唄、落語 「中央公論」1月号

 杉良太郎も設立総会に顔を出して、二階俊博超党派の国会議員が、演歌・歌謡曲を日本の伝統として保護しようとする連盟を作って、「演歌は意外と新しいのでは?」と言われたのは五年前のことだが、私も二〇〇二年の舌津智之『どうにもとまらない歌謡曲』(晶文社)を読むまで、このことを知らなかった。のちに輪島裕介が『創られた「日本の心」神話―演歌をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書、二〇一〇)で詳しく記述することになるが、ぴんからトリオの「女のみち」(一九七二)や殿さまキングスの「なみだの操」(七三)の「女歌」演歌が「ド演歌」としてヒットしたのが、実は今私たちが「演歌」として認識しているものの最初で、「北の宿から」(七五)や「津軽海峡・冬景色」(七七)はそのあとなのだ。あるいは中条きよしの「うそ」「理由」(七四)もぴんから・殿キンのあとで、輪島によれば、小柳ルミ子の「わたしの城下町」(七一)も演歌だというのだが、私にはあれはちょっと違う気がする。

 明治時代に添田唖蝉坊が「演歌」を名づけ直して研究した際は、自由民権運動以来の、演説を込めた歌のことだったが、現在言われる「演歌」は一九六〇年代に、主に女の恋愛に関する情念を独自の唱法で歌ったものとして創造されたとされる。五木寛之に『艶歌』(一九六六)があり、このような表記のものもあった。青江三奈などを演歌に入れる考え方もあるが、私は七二年以後のものを演歌と考える。

 私は埼玉県越谷市育ちなので、子供のころの近所の盆踊りでは、「東京音頭」「新東京音頭」「越谷音頭」が定番だったが、これら「民謡」も昭和に入ってから作られた、比較的新しいものである。文化社会学武田俊輔によると、民謡とは、野口雨情、中山晋平NHK、レコード会社が発掘し再構成し発明したものだという(徳丸吉彦編『事典世界音楽の本』)。ほかにも、「島原地方の子守歌」などは『まぼろしの邪馬台国』で知られる作家の宮崎康平が作詞したものだし、「五木の子守唄」は元から存在したことは存在したがはっきりせず、今歌われているのは戦後に古関裕而が作曲したものである。

 歌舞伎にしても、現在の形態の歌舞伎が成立したのは、女優歌舞伎もやっていた帝劇がなくなり、菊五郎吉右衛門がいた市村座がなくなって歌舞伎座に統一された昭和五~七年から敗戦までの間のことで、明治までの団菊左の時代から大正時代までの歌舞伎は女優歌舞伎もあり、もっと多様だった。

 落語の歴史は、徳川時代から存在し、明治時代に完成したとみるのが一般的だが、確かに徳川時代滑稽本、「膝栗毛」や『花暦八笑人』『妙竹林話七偏人』や、小咄集がネタ元になっているものはあるし、明治初期には三遊亭圓朝のような「人情噺・怪談噺の名人」がいたということで、『円朝全集』も出てはいるが、それらは現在の「落語」とはちょっと違っている気がする。その円朝の次に、ステテコの円遊とかラッパの円太郎などのおふざけ四天王が一世を風靡したというのも、話芸としての落語がまだ定着していなかったからではないか。

 私は若いころ、徳川時代の男女の色ごと、ラブシーンというのはどういうものかと考えて、落語「つるつる」(八代目文楽)にある幇間が藝者に言い寄る場面を聞いて、これあるかなと思ったのだが、調べたらこれは文楽自身の若いころの経験をもとにしたもので、要するに大正時代のことを昭和初期にまとめたものだと分かった。

 大正期には、「柳家小さん落語全集」などが刊行されており、昭和初期には特に演者を特定しない「落語全集」が出ていて、一九七六年に講談社の「落語文庫」になっていて私も数冊買ったが、だいたい落語というのは、大正から昭和の初め、特に私たちが聴いているような落語は、志ん生圓生文楽といったあたりが昭和初年に形を作ったものだろうと思っている。