音楽には物語がある(44)柳家小三治と中田喜直 「中央公論」八月号

 落語家の柳家小三治が死んで、『ユリイカ』で追悼特集をやった時、みなが小三治を礼賛する中で、放送作家の石井徹也の「私が知っている柳家小三治」は、ほぼ批判に終始していて、こういうのもなくちゃいけないと思った。実際小三治は、私は五十代のころは好きだったが、志ん朝が早く死んだことで人間国宝になり、求道者的な姿勢で過大評価されたところがあった。

 はっきり、私が良くないと思ったのは、二〇〇九年のNHK「プロフェッショナル仕事の流儀」が小三治をとりあげた時、すでに小三治は喉を傷めて、高座ではお茶にいろいろな漢方薬を入れて喉を労りながら勤めていた。だがカメラが回っている高座で、前座がお茶を出し忘れたらしく、小三治は苦しい高座を勤めていた。だがこれは単に袖に「お茶がないよ」と言えば済むことで、何やらやらせめいた雰囲気があった。高座が済んで二人の前座への小言になり、小三治が「お客さんが一番」と言ったが、私にはこれは小沢一郎が「国民の生活が第一」というふざけた政党名を掲げた時と同じ、偽善の香

りを感じた。

 立川談志が、落語家は歳をとって藝に味が出る、という考え方に疑問を呈したことがあるが、私も同意見で、もちろん噺によってはそういうこともあるが、一般には四十代から五十代の落語が一番脂が乗っている。小三治はその点、典型的に四十、五十代が良かった。

 小三治は若いころ「マジメすぎる」と言われて悩み、ジャズの演奏家の人生に学んでそれを振り切ったという。それは良かったのだが、六十を過ぎて、志ん朝が死んだあとから、今度は逆に、マジメというのが看板になってしまい、先に石井が言ったような求道者みたいな姿勢が出てくるようになった。もちろん、ファンである聴衆には、それが受けていた。マクラで現代社会を風刺したり、沈黙しているだけで笑いを誘うあたりも、持ち味だったこともあるが、次第に臭みになっていった観があった。

 ところで小三治といえば、次第にマクラが長くなっていき、それが一つの作品のようになって、それらを集めた『ま・く・ら』(講談社文庫)や、『もひとつま・く・ら』(同)の著書でも知られている。マクラに限らず、エッセイなどでくりかえし出てくるのが、小三治が若いころヴァラエティー番組に出ていたころ、浜松辺での興行で、美女が近づいてきて「ガチャガチャしたこと、やらないで、落語をやってください」と言ったという話で、この美女は実は藝者で、次に小三治がこの女性を探したら、すでに死んでいたという人情噺であろう。小三治は多分この女の人が好きだったのだろう。

 ほかにも、長くて有名なまくら作品として「玉子かけご飯」があるが、これは何か三遊亭円丈がやっていた気がする。どちらかが真似したのか。

 ものすごく長いのが「あの人とっても困るのよ」で、これは高田敏子の作詞で中田喜直が作曲した国民歌謡である。私も十五年ほど前に藍川由美の歌唱で聴いたことがあったが、小三治はこれがたいそう好きなようである。昭和三十年ころの、十七歳くらいの良家の娘の恋心を描いた古めかしい歌だ。中田喜直といえば、嫌煙家として知られ、過激な禁煙運動家との共著も出しており、私にはかつて敵として認識されていた。「夏の思い出」が代表作だが、これには裕福な中産階級夫人の趣味が感じられる。「あの人とっても困るのよ」も、貧困とは無縁な中産階級性が感じられて、私は、ああ、小三治というのは、大学こそ行っていないが教師の息子の、裕福な生まれ育ちの人なんだな、という感想を持たざるをえなかった。