結果として、栃野へのあからさまないじめはあまりなくなったが、栃野は私と大川ばかり相手にするようになり、放課後、駅まで三人で歩くということもよくあった。しかし栃野は、決してつきあって楽しい男ではなかった。
今でも十条に朝鮮学校があり、私らの学校でも「チョン」「チョンコ」などと差別的に言う者はいたが、まれで、悪ぶって言っているのだが、栃野はどうも本気で朝鮮人を差別していて、それを口にするのである。私はどういう教育を受けてきたらこうなるのかと驚いたが、ある時放課後、駅への道で栃野と二人になり、栃野があまりに朝鮮人差別を口にするから、
「なんでそういう挑戦的な言い方をするんだよ」
と言ったことがある。すると栃野は、それを「朝鮮的」ととったらしく、物凄い勢いで、
「どういうことだよ! 俺のどこが”朝鮮的”なんだよ!」
とどなり始めた。私はげんなりしながら、そうではなく、「挑戦」的と言ったのだ、と説明したら、理解した栃野は、突如にこやかな顔になって、あ、そうか、そっちの挑戦か、などと言い出したから、私はますます嫌になった。
あるいは、海堂高校の裏手に、保伝高校という、こちらは進学校ではない学校があった。私と栃野と大川で下校する途中、あちらからやってきた中学生のような子供が、保伝高校ってどこですか、と訊いてきた。教えてやって、彼が行ってしまってから、栃野は妙にニコニコして、
「俺たち海堂だろ、それで保伝について聞くってのはさ」
とかごちゃごちゃ言うのだが、それは俺たちのほうが偏差値が高いということで優越感を覚えたという意味でなのだが、私も大川も憮然として、返す言葉もなかった。
あと、大川の他クラスの友達のさらなる知り合いで、私も初対面の生徒が一緒になったことがあったが、栃野は何か言葉のやりとりのあと、にたにた笑いながら彼に土を投げつけたことがあり、彼は、
「何こいつ、初めて会ったやつに土投げるとか、何なの?」
と薄気味悪がっていた。
そんなやつだからいじめられたんだ、と言えば言えるが、とうていそれであの陰湿ないじめは説明できるものではなかった。特に窪木は、あとで気づいたが、ほかの悪童連は、たいていは教師に叱られるような場面があったのに、窪木にはそれがなく、教師たちの中には窪木がいじめの親玉だと気づいていない者もいたようだし、教師がいる前では決して変なことは口にしなかった。
三年生になると、全クラスあげての教師いじめが始まった。その教師は日本史の、四十代くらいの太った教員だったが、いかにも全共闘運動の生き残りといった感じで、熱をこめて歴史を語った。それが「シラケ世代」のいじめ心を刺激したらしく、次第に雰囲気が悪化し、ついにはその教師の来る前に全生徒が教室の外へ出てしまうなどという事件もあった。窪木と村川が中心となって扇動し、圧力をかけてのことだったが、私一人が同調せず教室内に残っていた。しまいには授業中に生徒の何人かが教員を糾弾するという事件すら起こった。何ゆえの糾弾か、それはまったく明らかにされなかった。ただ気に食わないというだけだった。窪木らの一派は、単に人をいじめることを面白がっていたが、中には植木という生徒のように、本気になって「あなたは自信過剰なんじゃないですか」などと教師を糾弾するのもいて、あれは謎だった。
この状況を憂える生徒もいて、元窪木グループだった浦野などは、教室から離れたところで担任に、みんなふざけてやってるから嫌なんですよ、と話していて、私が後ろを通りかかるとビクっとして、ああ藤井か、と、窪木の仲間でないのを確認して安心するみたいな独裁体制があった。
高校生当時、本を読んでいて「偽善」「偽善者」という言葉が出てくると、周囲に偽善者がいないためイメージがつかめず、なぜ彼らが偽善者を憎むのかも分からないほどに偽悪や露悪がはびこっていた。卒業して予備校に通うようになったら、女子学生はいるし、天国のように思ったものだ。私は、小説でも漫画でも映画でも、子供たちが結束して大人と戦うみたいなもの、子供たちの連帯を美化するようなものが嫌いである。こんな経験をしたら当然であろう。
大学一年の時、同窓会があって出かけて行ったが、当然というか、栃野と窪木は来なかった。卒業後、大川などと会う機会もあったが、ほどなく疎遠になってしまった。最後に会った時だったろうか、私が、ギュンター・グラス原作の『ブリキの太鼓』がそのころ映画になっていたので、その話をしたら、「それ作った人、うちの大学へ来たよ」と言うから、え? と思ったら、非行少年の映画「ブリキの勲章」と間違えていたのだった。
四十を過ぎたころ、インターネットで、九州のほうの大学教員で、窪木と同姓同名の人間がいたが、英国の労働運動などの研究者だったから、まさかあの窪木が、と思い同名異人だろうと考えてブログに書いたら手紙が来て、それは同じ窪木で、今も周囲の人をいじめている、と書いてあった。
もっと驚いたのは、窪木の父親が、国立大学の教授をしていたその筋では知られた教育学者だったことで、それで教員が窪木には甘かったのかと思ったほどだ。教育学者の子供がいじめっ子になりがちだというのは、人権派の学者がセクハラをしがちだというのと同じ構造だろうか。