栃野の世界(1)

(「ミゼラブル・ハイスクール1978」の一部を書き直したもの)

 JR山手線の新大久保駅と中央線大久保駅の間は「コリアン街」になっている。この二つの駅は、新宿駅から中央線と山手線が分かれるために隣接している二つの駅である。今では、東アジア街ともいうべき雑然とした街になっているようだ。そしてどうやらここへ「ヘイトスピーチ」の人たちが来て騒音を流したりするようだが、もちろん私は聞いたことがない。
 一九七八年から三年間、私はその新大久保の駅で降りて、大久保駅とは反対側へ十分ほど歩いたところにある海堂高校という「二流の進学校」へ通っていた。名前からも分かるとおり、かつての海軍学校の流れをくむ高校で、江藤淳の一族が経営しており、江藤も理事を務めていたことがある。
 私は中学生の時、おそらく受験勉強の重圧から心理的に逃れるためだろう、延々と漫画を描いており、勉強もしてはいたが、第一志望の埼玉県立高校に落ちて、この新宿からほど近い二流進学校へ来たのであった。今でこそ東大進学者数もだいぶ増えて、いっぱしの進学校のように思われているが、当時は東大合格者は現役・浪人あわせて五人程度だった。男子校であり、来歴からだろうか、体育教師が妙な権力を持っていて、朝方。校門のところで竹刀片手に、遅刻してくる生徒を待ち構えていた。私もよく遅刻したが、私の場合は、埼玉県から電車を乗り継いで一時間半もかかり、ラッシュアワーだから、当時日本でいちばん混むと言われた赤羽線を使う時などは、途中で圧迫のため窓ガラスが割れるといったありさまで、大人になってこんな通勤を何十年も続けることを考えたらぞっとするほどだった。新大久保駅からは、大久保の逆側に大通りを歩いて、横道へ入り、かたわらにロッテの工場があるためガムの臭いがする中をしばらく歩くのである。私はこのガムの臭いのために、卒業してからもしばらくはガムというものを噛めなかった。
 時間ぎりぎりに登校してくる生徒は多いから、そのうち道がびっちりになった上、前のほうから、締め切られそうだという空気が流れてくると、大勢の生徒が水に追われる鼠みたいに小走りになってざざざざっと前へ動き始める。すべて黒い制服の男子だから実に嫌なものだ。
 そして、あれは思えば何だかお約束のように、七、八人くらいが遅刻者として取り残される。その十五年後くらいに、ガラガラっと閉められた校門に女子生徒がはさまれて死ぬという事件があった。竹刀を持った体育教師二人くらいがいつもいて、前庭のゴミ拾いをさせるのである。あれは一年生の時だったろう、私がその一人になり、一回りゴミ拾いをして戻ってきて、教師の前に少し離れて立つと、
 「やってこい!」
 と言うのである。はて、今終わって帰ってきたのに、やってこい、とは? と私が狼狽していると、
 「ここへ来いってんだよ」
 と言う。それを「やってこい」と言う感覚が分からなかったので、慌てて近づいていくと、
 「お前は、あれだろう、朝起きておはようございますとか、そういうことがちゃんと言えてないだろう」
 そう言われて、私はぐっと胸に応えるものがあった。中学生の時から、軽い反抗期でもあったろうか、確かにその手のあいさつはしなくなっていた。というか、当時の私は話し言葉の混乱期にあった。
 うちの両親は茨城県結城地方の出身で、私も七歳までそちらに住んでいたのだが、母が努力して標準語を使っていたため、私は方言使いにはなれなかった。アクセントは関東のものだが、方言でしゃべることができない。また性格的に、汚い言葉は使えなかったが、たとえば「おやじ」とか「おふくろ」とかいう言葉を本当に使う人がいるのか疑わしいくらいだが、そういう言葉も使えないし、語尾もどうしていいか分からなくなった。結局高校から大学にかけて、私は落語を聴いてしゃべり方を習い直すことになったが、それから今日まで、お前のしゃべり方は演劇みたいだと言われ続けている。
 海堂学園は中高一貫校で、のちに私は中学から行ったと誤解されたこともあったが、地元の公立中学から行っている。だから、入学した時に知り合いなど一人もいなかった。そんなことは当然だと思っていたら、今の妻は、愛知県の某市で国立の中学校から有数の県立進学校へ進んだ人だから、知り合いなんかいなかった、と話したら、かわいそう、と言って泣き出したから驚いた。
 あとになって学者の世界に入ってみると、中学から私立というような人がざらにいたから、ああこれは最初から身分が違うんだなと思わざるを得なかった。
 初めての電車通学で、男子校、東京という条件下で、私はかなり暗い気分だった上、中高一貫校だから、いきなり勉強も知らないところから始まるありさまで、ついていけなかった。
このような私が、いじめの恰好の標的になったのも当然のなりゆきだろう。以前この高校でのいじめについて書いた時、大したことがないという反応があったが、それは暴力を伴っていなかったからだろう。もっとも、暴力を伴わないいじめには、独特の陰湿さがある、と私は思う。もちろん暴力は、ないほうがいい。
 私が二年生になる時にクラス替えがあり、三年生になる時はなかったが、その三年間、同じクラスで、いじめの親玉だったのが窪木という男だった。窪木は高校から入ってきた口で、家は横浜にあったらしく、その巧みな人心収攬術で、四人ほどの仲間を作り、休み時間に私が座っている机の周りに集まって、あれこれといたぶり口を利き始めた。それがどのようにして始まったかというのは覚えていないのだが、何かじめじめした嫌なことを言うのであった。私は今もって、どういう成育歴を持つとこのような人間が出来上がるのか分からない。
 私は、友達を作る方法というのがよく分からなかったのだが、二人の、名前に「大」がつく同級生が声をかけてくれ、休み時間には前庭へ行ってキャッチボールなどするようになった。二人とも中学からの進学組で、概して中学からの組は性質が温和で、高校から来たほうは荒々しかった。そのうち一人の大川は、三年間通じての親友みたいな関係にあったが、卒業後、疎遠になった。
 窪木グループによるいじめは、翌年の夏休みまで続いた。それがなくなったのは、私の成績が良くなったからで、二年の一学期の実力テストでは学年で一位になった。ただし夏に北海道へ修学旅行に行ったのは、進学校だから三年生で修学旅行をさせられないからだが、この時はまだ窪木らによるいじめの残滓はあった。
 一学期と二学期に二回、三学期に一回の定期試験があり、「考査」と呼ばれていたが、一年一学期の中間テストでクラスで一位だったのが、先の大川だった。だが二年、三年となるにつれ、私の成績が大川を抜いて、卒業後は大川は早慶以下の私立大へ進んだのが、疎遠になった一因だったろう。
 一年の時のクラス担任は、大谷という体育教師だったのも、体育の苦手な私の不運だった。ところがそのうち、別の「いじめ」が起きていることが分かった。栃野一(とちにはじめ)という生徒で、目玉がぎょろりとして眼鏡をかけており、陽気な男という印象だったが、山岳部へ入っていて、五月か六月ころだったか、関節炎のために学校を休む、ということがあった。ところが、そのことを伝えた担任は、変な顔つきで笑いながら、
 「栃野か、あいつは、顔が悪いんじゃないか」
 と言ったのである。私は、教師がそんなことを言うことに仰天したが、この学校ではそういうことがあったのである。私は家へ帰って母にこの話をしたら、母も驚いていた。
 だがそれからほどなく、やはり栃野が休みの日に、朝方から栃野の机の、上板が丸ごと剥がされるという事件があった。生徒たちはざわついていたが、やってきた担任はそれを見て、また苦笑みたいな表情をして、
 「なんだ、それァ」
 と言っただけだったのである。
 実際この担任は少し頭が弱かったのじゃないかと思うのだが、見た目がヤクザ風で、自分で、ある時白っぽい背広を着てどこかの店へ入ろうとしたら、店員が、あっ、あっ、そういう関係の方は、と言ったという話を無邪気にしていた。
 あるいはやはり六月ころ、教室の外に栗の木があったらしく、その実の、精液のような臭いが漂ってきていた。担任の大谷は、
 「あのこれは・・・まあ懐かしいような臭いだなあ」
 などと言って笑いを誘っていた。
 その当座、栃野へのいじめがどんな風だったのか、私は知らない。もっぱらその当時は、私が窪木にいじめられている、というのが一番目立っていただろう。夏休みになると、長野県にある学園所有の山の家みたいなところへ合宿に行った。この時、風呂に入りに行くと、並川という生徒が、
 「あれ? お前藤井? お前なんで窪木にいじめられてるの?」
 などと訊いてきた。こっちが訊きたいよと思った。
 夏休みはさらに補習の授業があって、二週間ほど学校へ通った記憶がある。
 それでも、日曜になると中学時代の友達が五人ほどで集まるようになって、私の孤独は緩和された。通学時間には大江健三郎の本に読みふけって、そこに描かれた人間のトゲトゲしい関係が、今の自分の状況をみごとに表現していると思っていた。
 ところが夏休み明けになって、夏休みの間に何かあったのか、突如、クラス全体による栃野いじめが始まったのである。発端は二学期の学級委員選挙で、いじめとして栃野に投票するよう、窪木のグループがあちこちで策動していた。栃野もその妙な雰囲気には気づいたようで、選挙の結果、栃野が委員に選ばれると、憤然として担任に言いつけに行った。担任がすぐやってきて、
 「何だこれは!」
 と怒鳴りつけ、
 「まあ何も栃野君が学級委員にふさわしくないと言うんじゃないが・・・」
 と語尾を濁しつつ、
 「だが見てりゃ分かるんだよ!」
 と言って、選挙のやり直しをさせた。だが、再び栃野が選ばれ、担任もどうすることもできず、去っていった。
 私と大川は、むろん栃野に投票はしなかった。そしてこの「集団いじめ」を憂えた。坂本という、丸刈りで野球をやっている生徒がいて、あいつは栃野には入れなかったんじゃないか、と大川と話して、「誰に投票した?」と訊きに行ったら、「トチノット」と答えた。
 いったいなぜ、栃野がいじめの標的になったのか、当初私は分からなかった。私などは、小学生の時からよくいじめられていたし、体育が苦手で、腕っぷしが強いわけではなく、埼玉県から来ていて、バカ話にうまく加われず、場違いなことを言ってしまう子供だったから分かる。栃野は割と陽気で、普通に他の生徒に溶け込んでいるように見えた。調子に乗りやすいところはあった。

(つづく)