7月に出したレンジェル・メニヘールトの「颱風」という戯曲の翻訳について。1907年にハンガリー出身の作者が書いたものだが、ハンガリー人なのでレンジェルが姓である。原作では舞台はベルリンだが、ドイツ語版ではパリになり、フランス語版ではベルリン、英語版ではパリにされている。
トケラモ・ニトベという日本人とその仲間の吉川とかヤモシとか奇妙な名前の一団がいて、日露戦争後、意気あがる日本によるヨーロッパ征服の野望のため研究をしている。トケラモにはエレーズという愛人がいるが、口争いの末に殺してしまい、日本人らはトケラモをかばうため別の日本人の犯行に見せかけようとし、それは成功する。
ところがこのあとが、原典やドイツ語版と、ヘンリー・アーヴィングの息子のローレンス・アーヴィングが訳した英語版では違っている。原典ではトケラモは病死してしまうが、英語版では、かねて日本を敵視するような発言をしていたベインスキーから、あたかもパリ祭の七月十四日に、これはバスティーユを打ち壊した記念であり、我々の愛国心がバスティーユなのだ、と愛国心の危険さを訴え、トケラモはそれを理解し、切腹して果てるのである。これはアーヴィングがつけ足した部分である。ロンドンで森律子が観たのも、その後帝劇で上演されたのも、このアーヴィング版なのである。
平川祐弘は『和魂洋才の系譜』に収められた論文でこの「颱風」を論じているが、平川はドイツ語版で読んだらしく、英語版は見ていなかった。ためにこの劇を、日本人を敵視する「黄禍論」の芝居だと否定的に評している。帝劇での主演は『帝劇の五十年』では澤村宗十郎となっているが、宗之助の誤りであることを、平川は当時の『演芸画報』で確認している。だが、帝劇で演じられたのは、愛国心の危険性を説く英語版であることに、平川は気づかなかったのである。
(小谷野敦)