『新アラビア夜話』を読む

 ロバート・ルイス・スティーヴンソンというのは、誰でもそうだろうが、どうも位置づけの難しい作家で、一般には『宝島』『ジキル博士とハイド氏』で知られ、それなら通俗作家かというに、『プリンス・オットー』や『バラントレーの若殿』などがあり、吉田松陰を礼賛した随筆もあれば、『中島敦殺人事件』で書いたように、『ヴァイリマ書簡集』は『光と風と夢』のネタ元ながら未邦訳である。
 その『新アラビア夜話』が光文社古典新訳文庫に入ったのを読んだら、存外面白かった。私が高校生のころ、講談社文庫にスティーヴンソンの『自殺クラブ』というのがあって(河田智雄訳)、面白そうだと思ったのだが読まなかった(のち福武文庫)。それが、実は『新アラビア夜話』で、自殺クラブの話は発端に過ぎず、ボヘミア王子フロリゼルというヒーローが登場して、別の事件を解決する一種の探偵小説である。シャーロック・ホームズの登場より五年前の1882年に単行本が出ている。なお同年には、「吉田寅次郎」を含む随筆集が出ているが、既に明治15年吉田松陰などとっくに処刑されているのだが、松陰が黒船に乗り込もうとして罪に落ちたことだけを知って、その知的探究心を礼賛している。
 私はこの、スティーヴンソンの吉田松陰論を、平川祐弘先生の『西欧の衝撃と日本』(講談社学術文庫)で知ったのだが、この本は、その前の『和魂洋才の系譜』より文章がこなれていて、その後の平川先生の、愛国主義がどうも鼻につくところがない、いい本である。
 そして実は私は、吉田松陰がペリーに宛てた書簡についての小論文を『叢書比較文学比較文化 テキストの発見』に書いているのだが、単行本には収めていない。というのは、岸田秀の理論を援用していたからで、松陰はペリー宛書簡では、広く世界を知りたいなどと書いているが、本心はスパイ活動のつもりだった、つまり裏と表があったという話で、書いた当時は、うまく書けたと満悦していて、「うまいだろう」と松居竜五に言ったら、松居はにやにやしながら「うん、うまい、だけど、あれで吉田松陰論が書けるかと言ったら…」と難癖をつけたので、こうしていじめられている間に私の精神はひねくれていったのである。
 それは余談である。この新訳は、南条竹則と坂本あおい。南条は英文科の先輩だが、もちろん作家でもある。この人の処女作『酒仙』の文庫版解説を書いているのは、南条の友人で、私が独裁者になったらまっさきに凌遅の刑にしてやる奴だが、別に南条に罪はない。
 さてこの文庫解説はですます調で面白いことが書いてある。1987年、新宿伊勢丹で開かれたホイスラー展に、英国の美術批評家Sに頼んだ(このSは物故者らしいが今のところ不明。ホイスラー展図録を見れば分かる)ところ、「had like to」という表現があったので、南条の父である担当者(この人も不明)が「had liked to」の間違いではないかと尋ねたらそれでいい、と言うので大きな英語辞典を見たら載っていたという。
 しかし87年1月に第二版が出た小学館プログレッシブ英和中辞典を見ると、「似たり」の意味のlikeのところに「非標準」「方言」として、「had like to あるいはhad liked to」で、あとにto have doneを伴い「あやうく…しそうであった」の意味が書いてある。南条は、何やら今でも、OEDを見なければ載っていないかのように記しているが、そんなことはないのだ。英文学者には時折、こういうこけおどしをする人がいる。
なおボヘミア王子フロリゼルというのは、シェイクスピア冬物語』からとった名前で、この戯曲ではボヘミアに海があり、シェイクスピアボヘミアの地理的位置も知らなかったのかと言われているが、そうではなくて単に幻想的地名だろう。

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http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news007690.html

 ときどきこういう凡ミスをやるんだよなあ。誰も矛盾だなんて言ってないのに(言っているなら典拠を示せ)。それに、女はスーパーウーマンを、って、外で仕事してない人も多いし、佐伯さんは仕事はしているけど子供はいないし(今橋さんもそうだし)、何に対して怒っているのであろうか。坂東眞理子化か? まあこういうことを言っておくと紫綬褒章とかが貰える、という好例の文章である。