幻の序文

 『翻訳家列伝101』の「明治・大正期の翻訳家」の序文は、書いておいたものがゲラにならず、私も書いたことを忘れて新たに書いてしまったので、残っていた。重複するがもったいないから掲げておく。

第一章 明治期の翻訳家たち

 幕末から明治初期にかけての、日本の指導的人物たちの、西洋文明の良いところを取り入れようという努力は、感動的である。ペリーの黒船来航の際に、異人排斥でいきり立っていた者たちが、いざ実地に西洋を見て回り、現在の日本の国力ではとうていこれに太刀打ちできないとたちまちに悟り、攘夷を捨ててそれらの文明を取り入れるべく動き始めるのが、実に迅速である。
 ところで、明治前期の知識人たちの英語力は非常に高い。福沢諭吉なども、蘭学をやっていたが、横浜が開港されると、今や英語が世界語であることに気づいてすぐに英語をやり始める。明治維新後に近代的な学校が作られると、西洋人を教師として招き、「お雇い外国人」として、すべての授業を英語でやったりした。つまり、数学でも地理でも歴史でも理科でも、英語の教科書を使い、英語で講義がなされたのである。その代わり、それを移すだけの日本語がまだできておらず、「哲学」「権利」「心理」などさまざまな造語がなされ、西洋語を日本語に移すための工夫がなされた。だから、岡倉天心とか鈴木大拙とか新渡戸稲造とかいう人たちが、英語で著作をした、といって感心する人がいるけれど、むしろ彼らに、日本語で書けと言ったら、困っただろう。漢文でなら書けたかもしれない。日本の武士あるいは上層町人は、既に徳川時代から漢文を学んでいるから、外国語というものは、さして驚くようなものではなかった。漢文もまた、主語の次に動詞が来るという、西洋語と同じ構造をしているから、そういうことでびっくり仰天する必要などなかったし、漢字を訓読みして日本語化するという作業さえしていたのだから、英単語が氾濫していると言われる現代の日本で、中学生が英語に戸惑うのに比べても、彼らの外国語習得は敏速だったはずである。
 試みに、現代において、中学生から、すべて英語を母語とする教師が、英語の教科書を用いて全学科を教えたら、日本人の英語力は飛躍的に向上するだろう。しかしむろんそれでは、日本人の教師があぶれてしまう。明治も中期になると、そういうお雇い外国人が次第に減っていったのは言うまでもなく、日本語の教科書も作られていった。夏目漱石などは、外国人に教わった口だから、その漱石が一高、帝大の講師になった時、学生の英語力が落ちている、と言ったというのも当然である。なお東大の英文科では、大正五年(一九一六)に市河三喜助教授になるまで、ほとんど外国人が教えていた。
 だから、昭和期の英文学者の英語力は、福沢諭吉はもちろん、北村透谷のような、少年時代から自由民権運動に挺身していてあまり学校へ行かなかった者よりも低い。透谷がエマソンの「自然」を訳して、詩人と俗人を対比させているところがある。透谷は「俗人」と訳しており、その原文は「sensual man」である。ところが、一九六〇年の日本教文社エマソン選集1』の斎藤光(一九一五− )の訳では、ここが「官能的な人」になっている。誤訳であって、だいいち意味が通らない。sensualは「官能に溺れる、世俗的な」という意味である。岩波文庫『エマスン論文集』は、明治末年の戸川秋骨訳を、一九七二−七三年に酒本雅之訳に変えているが、戸川は「俗人」としているが酒本はなぜか「感覚的な人」にしてしまっている。斎藤光といえば、英語英文学界の帝王だった東京帝大教授の斎藤勇(一八八七−一九八二)の長男で、自身東大教授のアメリカ文学者だが、こんな訳をしてしまうのである。
 ただし透谷の訳は漢文体である。明治初期の翻訳は、当然ながらみな漢文、古文体であって言文一致体ではない。『西国立志篇』のことは中村正直の項で述べるが、「篇」というのは今でいえば「論」のようなものだ。ところがフレイザー文化人類学の本『金枝篇』などは、原題は『黄金の枝』なのに、昭和十八年(一九四三)にもなって古風な邦訳題をつけて訳出し、今でもその題名で出ている特異な例である。
 明治の文学史には、中江兆民訳『維氏美学』というのが出てくるが、これはウジェーヌ・ヴェロンの翻訳で、「維氏」というのは、ヴェロンに漢字を宛ててその頭をとった「ヴェロン氏」という意味だ。当時は『突氏幾何学』とか『倍因氏教育学』といった翻訳がたくさんあった。その名残が、「摂氏」「華氏」という気温表示に残っている。これはシナ経由だが、「セルシウス氏」「ファーレンハイト氏」という意味である。
 ヘップバーンが「ヘボン」と読まれてヘボン式ローマ字に名を残したり、西洋人名もなかなか一定しなかったが、小説、戯曲となると、始めは、登場人物名を日本名に変えた「翻案」めいたものも多かった。文学作品の翻訳で、単行本として最も古いのは、明治五年の『魯敏孫全伝』(斎藤了庵)で、つまりデフォーの『ロビンソン・クルーソー』である。九年にはジョン・バンヤン天路歴程』というキリスト教文学が佐藤喜峰によって訳されており、この邦訳題は今でも踏襲されている。そして明治十一年になると、川島忠之助によるジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』、丹羽純一郎によるブルワー=リットンの『花柳春話』が出ている。ヴェルヌは、明治期のフランス文学の中で最も多く訳された作家で、のち森田思軒の『十五少年』が出ており、これは原題は『二年間の休暇』だが、今でも森田訳を踏襲して『十五少年漂流記』として記憶されている。『花柳春話』は、英国の作家の『アーネスト・マルトラヴァース』と続編『アリス』をあわせて抄訳したもので、以後しばらく、恋愛小説はこの種の「春話」系の題名がつけられることになる。
 つまりここまで、冒険もの、宗教もの、恋愛ものが出たわけで、明治十五年になると、アレクサンドル・デュマ父がバスティーユ監獄襲撃に取材した「アンジュ・ピトゥー」を、当時流行の政治小説の一つとして宮崎夢柳が英訳から訳した『自由の凱歌(かちどき)』、やはりデュマのフランス革命ものの発端を訳した桜田百衛の『西洋血潮小暴風(にしのうみちしおのさあらし)』が出ている。しかしこれは発売禁止となり、桜田はほどなく病死して、こうした訳者たちは、その後も翻訳家として活躍することはなかった。唯一、多くの翻訳を残したのは、この時期では井上勤くらいである。そして明治十八年に、ブルワー=リットンの『慨世士伝』を坪内逍遥が出し、以後長く続く翻訳家、小説家、文藝理論家、教育家としての歩みを進め、引き続いてロシヤ語を修めた二葉亭四迷が、やはり小説家、翻訳家、外交家として登場することになる。
 明治期には、翻訳といっても、翻案、抄訳、英訳からの重訳などが多く、しかし当時の小説家たちは、今とは違い、英語ないしは英訳で、フランスやロシヤの小説を実によく読んだものだ。尾崎紅葉田山花袋泉鏡花など、今では古風な作家と思われていようが、紅葉は英語でバーサ・クレイの小説を読んでこれをネタに『金色夜叉』を書いたとされているし、花袋は「洋書読みの花袋」と言われるほど、英訳などで露仏独の文学を片っ端から読んでいた。鏡花はアプレイウスの『黄金のろば』を訳し、これは「高野聖」のネタとなっているし、ハウプトマンの『沈鐘』も、妖怪小説なので、ドイツ文学者の登張竹風との共訳で出している。意外なのは夏目漱石が翻訳をしていないことだが、文学研究とは何か、ノイローゼになるほど悩んだ漱石だけに、思うところがあったのだろう。その代わり、テニスンに取材した『幻影の盾』や『薤露行』を書いている。
 森鴎外も、ハンス・クリスチャン・アナセン(アンデルセン)の『即興詩人』の訳が、原作以上と言われており、ほかに『諸国物語』にまとめられた、主としてドイツ語からの短編の翻訳もあるが、翻訳家というほどではない。
 そんな中で、翻訳文学に新機軸を打ち出したのはやはり二葉亭四迷であり、明治二十年代という早い時期に、トゥルゲーネフの『猟人のスケッチ』から、「あひびき」「片恋」などを抽出してロシヤ語から翻訳したのは、画期的だった。ロシヤ文学について、それ以後の詳細は第二章に譲るが、大正中期までは、多くは英語からの重訳で、内田魯庵が最初に訳した『罪と罰』も、そうである。
 その一方、探偵小説、怪奇小説の類を多く翻訳したのが、「萬朝報」記者で「まむしの周六」と呼ばれた黒岩涙香であり、ユゴーの『レ・ミゼラブル』を『噫無情』とし、デュマの『モンテ・クリスト伯』を『巌窟王』としたのなど、以後長く引き継がれた邦題である。私が子供の頃までは、『レ・ミゼラブル』と言うより『ああ無情』のほうが通りが良かった。『レ・ミゼラブル』で一般化したのは、英国製のミュージカルが当たってからのことである。
 その後、昭和に入る頃からは、重訳などということは、たとえばイプセンノルウェー語、アンデルセンデンマーク語など、特殊な言語以外は許されなくなり、原典訳の時代になった。それについて、山本夏彦が、「米川正夫論」というのを書いている(『ダメの人』中公文庫)。そこで山本は、黒岩涙香など明治の文士の翻訳は面白かったが、米川、原久一郎、中村白葉ら学者が原典から完訳するようになって、おもしろくなくなったというものだ。しかし、豊島与志雄の『レ・ミゼラブル』がおもしろくないとも書いてあり、私には豊島訳は翻訳の傑作だと思える。山本は、『カラマゾフの兄弟』は、誰か忘れたが文士の縮約で読んで面白かったという。恐らく森田草平のものだろう。しかし、「やせてもかれても文士だから」と書いているが、豊島与志雄はれっきとした小説家であることを忘れていて、いけない。
 とはいえ、完訳が必ずしも最高ではないというのには同意する。「怪盗ルパン」ものなど、南洋一郎の抄訳以上の「翻訳」で読むと面白かったが、大人になって完訳で読むと妙に面白くなかったといった人は多いだろう。もっとも、『チャタレイ夫人の恋人』とか、ヘンリー・ミラーや『金瓶梅』のように、エロティックなところを削除した訳というのは、もちろんそれとは別の意味で、良くないが、これは猥褻罪に引っかかる恐れがあったからで、今ではだいたいそういう箇所も訳されている。
 戦後になると、むろん翻訳はいよいよ精密化していくが、英語の文学は、特に推理小説やSFなど、翻訳専門の人が現れるようになり、次第に大学教授の翻訳というのは廃れていったのに対し、フランスやロシヤは、やはりまだできる人の数が英語に比べれば格段に少ないだけに、大学教授による翻訳が多い。大学教授といえば、大正から昭和初期にかけては、語学研究と文学研究が分離していなかったので、市河三喜(東京帝大教授)や豊田実(九州帝大教授)といった英語学者が、英文学の翻訳をしていることもあった。今ならまずありえないことである。
 次に翻訳の著作権、翻訳権について述べておくと、明治・大正期には原著者の了解もなく自由に訳していたようである。戦後は、一九七〇年まで、ヴェルヌ条約というものに日本も参加し、これによると、刊行後十年間翻訳されなかったものはパブリック・ドメインとして、翻訳の著作権がなくなることになっており、従ってそれ以前は、そうしたものは自由に翻訳ができた。またモーリス・ルブランの「怪盗ルパン」シリーズは、大正期から保篠龍緒が訳しており、保篠が翻訳権を持っていると主張していたが、戦後一九五八年以前に、改めて翻訳権を取得することになり、新潮社、ポプラ社東京創元社が名乗りをあげてフランス側のエージェントと交渉し、新潮社は文庫、ポプラ社は児童もの、東京創元社は全集ということで話をつけたという。そこで新潮文庫から堀口大學訳「リュパン」(一九五九年から)、ポプラ社から南洋一郎のリライト(一九五八年から)、東京創元社からは単行本で、井上勇、石川湧らによる翻訳(一九五九年から)が出たという。しかし、ヴェルヌ条約の条件があるため、ルパンの初期の作品はパブリック・ドメインとなっており、これらはどこでも翻訳できたという。これは元東京創元社にいた戸川安宣の説明である(「ひげの剃りあとも青々しいルパン」『本の雑誌』二〇〇四年八月号)。しかし堀口は十冊だけ訳してやめてしまったため、一九七二年からは創元推理文庫に『カリオストロ伯爵夫人』などが続々と入っているが、これはみな新潮文庫と重なっていない。もっとも『813』などは一九八一年に偕成社から大友徳明訳が出ていたり、どうもこの辺は黙認されたものらしく、八○年代以降はあちこちの出版社から出ている。なおルブランの著作権は五十年保護で一九九一年に切れているので、今ではどこでも翻訳できる。
 さて、誤訳の指摘はしないと書いたが、実は私は、シェイクスピアの『オセロウ』について、二十年以上前から気になっている箇所がある。第二幕第一場で、デズデモウナとエミリアがオセロウを待っている間に、イアゴーがエミリアの悪口を言う場面がある。それは女一般への罵詈になって、デズデモウナやエミリアが「まあひどい」みたいな感じで聞いている場面だが、イアゴーは、
 「だいたい女ってものは、外に出てはお人形、部屋にいては割れ鐘、台所にあっては山 猫、悪事をなすときは聖女面(づら)、腹を立てたときは悪魔面、働くときは怠けもの 、ベッドのなかでは働きもの」(小田島雄志訳)

 と言うのだが、問題はこの「悪事をなすときは聖女面」で、原文は「Saints in your injuries」で、これまで日本ではみな小田島のように訳してきた。これは十八世紀英国の大文人で、初めて『シェイクスピア全集』を編纂したサミュエル・ジョンソン以来の解釈である。

 坪内逍遥 悪だくみをしてゐても菩薩顔をしてゐるが(一九二二)
 久米正雄 悪だくみの最中も女菩薩(一九二五) 
 木下順二 悪事を働くときは聖人顔(一九四七) 
 福田恆存 また悪事を働くに聖者の顔をもってし、(一九六〇)
菅泰男 悪いことをしようって時には聖人のようにすましていて、(一九六〇)
 小津次郎 聖人面をして悪事を働く(一九六八) 
 三神勲 心に悪意を抱いても顔はお地蔵さん(一九七七) 
 松岡和子 悪さをする時は聖女面(二〇〇六) 

 また笹山隆の『シェイクスピア双書 オセロー』(大修館書店、一九八九)の注では「悪口を言う時は聖者ぶった態度をする」とある。ところが私が若いころ見た新ケンブリッジ版『オセロー』(一九八四)のノーマン・サンダースの注釈には「傷ついたと訴える時は」となっていたのだ。
 injuriyというのは、傷・侮辱などを意味するが、「your」はもちろん、一般的yourだとして、「悪事」なら他人に対する傷ということになるが、この「傷」というのは物理的な傷を意味するから、聖女面して夫をぶん殴るというのは変だし、聖女面して侮辱する、というのも変だ。「(自分が)傷ついたと訴える時は聖女面」のほうが「悪事をする時は聖女面」よりよほど筋が通っているのではないか。
 そしてようやく、二〇〇八年に出た研究社の対訳シェイクスピア選集の『オセロウ』で大場建治が「受難のお顔は聖女さま」とし、注釈ではサンダースを参照し、ジョンソン以来の解釈もあるが、その後のデズデモウナの悲劇からもこの方が妥当としている。画期的な訳である、と思う。