凍雲篩雪

(これは一ヶ月前に出たもので、書いたのは二ヶ月前)
 前回触れた『絶歌』の件だが、『文學界』の八月号で、栗原裕一郎が短文を書いていて、少年Aと太田出版の行為を「蛮行」と評していた。しかし栗原はかつて太田出版の依頼で書いた、のち『盗作の文学史』として新曜社から刊行された原稿を、どたん場で刊行拒否されており、恨みを抱いている。果たして適切な人選だったか私は疑問だが、栗原は、ゴーストライターによるものではないようだとしつつ、匿名であるため信憑性が低くなっていると書いている。
 匿名だと信憑性が薄いというのはこの場合よく意味が分からない。奇妙にこの「匿名」をあげつらう者がいるのだが、難癖をつけようとしているとしか思えないのである。遺族の一人が時おり発言しては大きく報道されるのだが、これは遺族ファシズムではないかと思った。本誌七月中旬号に掲載された深田卓の「出してはいけない、売ってはいけない本はない」は、そんな中では正論で、大手メディアは憎悪と嫉妬に毒されている。
 『文藝春秋』には奥野修司が「元少年A、その自己愛を私は許さない」という妙に感情的な題名のものが載っているが、奥野は、少年法六一条(名前の将来にわたる秘匿義務)を引きつつ、この条文は今回のような事態を想定していないと、何の根拠もあげずに述べている。さらに、遺族の塗炭の苦しみを押しても出版すべきだったか、などと書いているが、なぜ元少年が手記を出すと「塗炭の苦しみ」になるのか、理解できない。
 アマゾンレビューあたりの、読まずに一点つけているクズどもは論外として、読んで論評しているものまで、元少年が生活に苦労しているのを書いたのを、「同情を引こうと思ったのか」と書いたり、更正や贖罪からはほど遠いと書いたり、何を基準にして書いているのか分からないひどいものが多い。著作には、被害者への詫びの言葉は普通に書いてあるので、もしこのような感想文だけ読んだら、いったいどんなひどいことが書いてあるのかと思うくらいだ。ではどのように書いたらあなた方は納得するのか、どう書いても納得しないのではありませんかと言いたくなる。集団リンチである。『ちくま』八月号の斎藤美奈子も、あれこれと理屈をつけているが、要するに遺族至上主義でもあり、見沢知廉の例は挙げていない。
 法的には、所定の矯正教育処分を受けた彼は、憲法が保障する正常な生活を送る権利がある。つまり批判者たちは、手記を出したこと自体が許せんというのか。遺族が抗議しているからいかんというのか。これは、柳美里の『石に泳ぐ魚』を、モデルが嫌がっているという理由で指弾したのと同じ理屈であり、言論の自由というものを理解していない。
 むろん、批判するのも自由である。だが、批判は、それへの反批判に答えることも倫理としてあるはずだが、私は未だに栗原からも、批判への回答を得てはいない。
 しかもそうした記事には「莫大な印税を手にし」と、売れていることへの嫉妬が主たる動機ではないかとさえ勘ぐられるものも少なくない。要するに、木嶋香苗や見沢知廉は売れなかったからいいというのか。そんなバカげた話はあるまい。
 深田があげていた映画「BOY A」を私は未見だったので観てみたが、これは明らかに日本の少年Aをモデルにしたものだろう。日本で「少年A」の邦題をつけるとまずいというのでこんな題になったか。
 この映画は優れた作品だった。モデルとなった事件に比して、実際に殺人を犯したのは相棒の少年だったことを仄めかしており、より同情しうるようになっているが、世間というものの恐ろしさはよく描かれていた。
 そもそも、この犯罪は、営利目的ではなく、先天的な精神の病によるものであろう。ドストエフスキー谷崎潤一郎大江健三郎にも、そういう素質はあった。ただし実行するところとは大きな隔たりがある。このような犯罪に対して、憎悪という形で向かうのは間違いである。遺族が憎悪に走るのはやむをえないが、マスコミがそれに乗ってはいけない。私には、まったく反省の色を見せなかった見沢知廉のほうが、よほど憎むべき人間だと思える。今回元少年を批判している者たちは、見沢を批判したことがあるのか。私はした。見沢が自殺したのを、ふさわしい最期だ、と書いた。
 今回の『絶歌』批判者は、遺族(といってもその一部)の抗議に引きずられ、俗情との結託に堕している。
 さて、芥川賞直木賞が決定したが、私は芥川賞は、「火花」とダブルなら島本理生「夏の裁断」だと思っていたので、羽田圭介とは意外だった。羽田の「スクラップ・アンド・ビルド」は、祖父のことを安楽死させてあげようと思っているうちに若者が成長するとかいう道徳の教科書みたいな話で、感心しない。文学というのは、学校的知性に反するものだと言ったのは秋山駿だが、前回の小野正嗣といい、どうも現在の選考委員は学校的知性に毒されているらしい。というより、マスコミのほうを向いて選考している。新聞の購読者層は高齢者であり、テレビとともに、インターネットに接しない高齢者向けの媒体となっている。だからマスコミは、私の「ヌエのいた家」など取り上げようとはしない、むしろ羽田の老人道徳小説のほうが受けがいい、取り上げやすい、ということで、選考委員がこれに迎合しているのである。
 直木賞をとった東山彰良の『流』も、祖父の過去を青年が追うという構造は、百田尚樹の『永遠の0』と同じで、こういうのもまた現代ではマスコミ受けするのだろう。しかし、各所で絶賛されているわりに、文章が良くない。語り手の主人公が、自分のことを何度も「天真爛漫」と言うが、自分のことをそんな風に言うってどこかのスイーツ女子高生かい、と思った。ほかにも、最近の新人作家によるある、大仰な比喩、「台湾の足首にくくりつけられていた重石が取れ、アディダスのランニングシューズに履きかえたような空気がそこはかとなく漂いだした」とか、妙に大時代な措辞、「天気晴朗にして風はなく」「芥子粒ほどの大きさの人々」「鄭重に黄泉路へ送り出すべく」とか、おかしな表現「絶句のわたしを」などが見られて、ほお直木賞はこんな文章でもいいことになったのか、と呆れたのである。漢語に日本語のルビを振るのなど、昨年芥川賞候補になった「吾輩は猫になる」にも見られたが、私にはつまらん技法にしか思えない。
 もっとも、直木賞受賞作の文章では、佐藤賢一の『王妃の離婚』もかなり危なっかしかったのだが、森見登美彦などに授賞せずにきた見識が今回は失われたということになる。こういうのは、台湾との文化的友好事業の目的で与えられるのであろうか。すると直木賞もまた、マスコミ的になっていることになる。
 あともう一つ、言葉とがめをすると、「STAP細胞はありまーす」というのが昨年の流行語大賞になったというが、小保方は「あります」とは言ったが「ありまーす」などと伸ばして言っていない。その昔、仮面ライダーが二号になって、変身ポーズをとり、「変身!」とやったのが、昭和風俗史などで「ヘンシーン!」がブーム、などと書かれているので、私は著書で訂正したことがあるが、「ありまーす」などは、今目の前で歪曲が行われた例である。