『大江と江藤』で橋川文三に「ぶんぞう」とルビを振ったのだが、これが「ぶんそう」とされているのは知っていて、しかし実際に「ぶんそう」なんて呼んでいた人はいまいと思い、『日本近代文学大事典』でも「ぶんぞう」だし、「ぶんそう」と振るのはなんか半可通っぽいと思ったからだ。
 だが「ぶんそう」だと指摘してくる人はいて、考えてみると、「ぶんそう」だと知っていてあえて「ぶんぞう」と振るのと、「ぶんそう」だと知らずに振るのとでは違うのだが、まさかいちいち「『ぶんそう』なのは知っているがあえて『ぶんぞう』とする」と言ってその理由を説明するのもわずらわしい。