長谷川三千子先生から、小冊子『野上耀三・野上三枝子生い立ちの記』をお送りいただいた。私はこれで、三枝子の父市河三喜の二人の男児がいずれも早世しているのを知った。次男・三愛は幼くして病で、長男・三栄は、1943年、海軍機関学校の英語教師として赴任してほどなく、神経症を患って帰宅し入院、服毒自殺してしまい、母つまり三喜の妻晴子はそれを悲しんで後追い自殺してしまう。このことは、英語学関係者の間では知られたことだろうし、野上弥生子日記にもあるらしいが、知らなかった。
『講座小泉八雲』には河島弘美の「市河三喜・晴子夫妻とハーン」という文章が載っていて、そこでは「長男三栄を失った痛手から立ち直れず、後を追うように逝去した」とあって、どちらも自殺であることが伏せられている。「追うように」ではなくて「追った」のである。
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生きている人について書く時は当人に取材すべきだ、というのは正論なのだが、実はそうもいかない場合がある。たとえば、かくかくしかじか、しかしこれは書かないで下さい、と言われる可能性があるからである。ないしは、本人だから本当のことを言うとは限らない。しかし他から得た情報によってそれがどうも真実らしく、本人が嘘をついている、と書き手が判断することもあるが、そこで、誰それさんはこう言っています、それが真実らしいです、とその場で言えば放り出される恐れもある。これらを勘案して、あえて本人ないし周辺人物に会わない、というやり方もある。
(小谷野敦)