行方昭夫先生からいただいたモームの『お菓子とビール』を読んでいたら、どうも分からないところがあった。まず第四章、ドリッフィールドという、ハーディがモデルだという作家の伝記を書いてほしいと未亡人から言われた語り手のアシェンデンは「数年前に短い手紙なら貰っているだろうが、当時は無名作家だったのだから」とっていないと言う。しかしアシェンデンは15歳の頃に、30歳くらいでまだ無名だったドリッフィールドを知っていたのである。上田勤訳を見ると「なんでも遠い昔のこと、五、六通は、それもごく簡単な手紙をもらった憶えはあるが、そのじぶんの彼は名もない三文文士で」となっていて、これで正しい。
 あと第11章、ドリッフィールドの発言として、「ヘンリー・ジェイムズアメリカ合衆国の前進という世界史上の大事件に背を向け、イギリスの田園の豪邸でのお茶の席でのつまらぬ会話を伝えた」とある。アメリカ合衆国の前進? 上田訳では「ヘンリ・ジェイムズは英国の田舎の別荘の茶会の愚にもつかない雑談を書くために、アメリカの勃興という世界史上の大事件を捨てて顧みなかった」となっていて、これなら意味が分かる。
 あと第16章で分かりにくいのが、語り手が、一人称で書いてきたことを悔い、イヴリン・ウォーによれば一人称で小説を書いてはいけないそうだ、として、エドウィン・ミュアやE・M・フォースターの小説論を読んでも分からなかったと言い、「デフォー、スターン、サッカレーディケンズ、エミリ・ブロンテ、プルーストなど、当時は有名だったが今では間違いなく忘れられた作家が一人称で書いたのは・・・」と来る。つまりこれはウォーへの皮肉で、それなら一人称で書いたこれらの作家は今ではその技術的稚拙さのゆえに忘れられているでしょうね、ということなのである。しかしこれは訳注をつけておかないと読者が分からないだろう。