小説で雨が降る

 大学時代、「児童文学を読む会」で宮澤賢治の「ポラーノの広場」をとりあげた読書会があったのは1984年5月10日、私が英文科に進学したばかりの時である。間違えて戯曲「ポランの広場」を読んできた人もいた。出題者(レポーター)は今名古屋大教授のフィンランド語学者になっている佐久間君。
 途中、いま愛知県の理系国立大の教授になっているI氏という、宮澤賢治がやたら好きだった人が、ぺらぺらっと何かしゃべってから、「これ、雨降ってないでしょ」と言った。I氏は、何かすごい人だと思われていたし、みな、何か深いことを言われたように思って、「おおー」というような声にならない声があがった。
 しかし、小説で雨が降るというのは、事実に基づいていてその時雨が降っていたとか(『彼岸過迄』とか)、雨に濡れながら明石屋さんまが「あんたが好きなんや」と言うとか男女のあれこれを効果的にするとかあるが、時には250枚くらいの作りもの長編で、雨を降らせるのを忘れてしまうこともある。あれはわりあい、「あ、この辺で雨でも降らすか」くらいな感じで降らすのである。