藤枝静男の講談社文芸文庫『志賀直哉・天皇・中野重治』を、魔がさして買ってしまった。別に後悔はしていない。弟子である藤枝の、志賀に関する随筆・評論を集めたもので、最後に表題作が載っている。
しかし順番がおかしいだろうというのは、こう来たらまず中野の「暗夜行路雑談」を先に読むのが筋である。これは『暗夜行路』批判として有名なもので、「ざつだん」ではなく「ぞうだん」と読む。有名なものだが、文庫などに入っていない。私は何かのアンソロジーからコピーして持っているが、「暗夜行路雑談」が文庫に入っていないのに、それに関する藤枝の文章を文庫にするというのは話が逆である。藤枝のこの表題評論も、その周辺をぐるぐるしているだけで、さしたるものではない。
「暗夜行路雑談」は、批判しているのに志賀への尊敬と愛情があり、成心がないと言って褒められる。私はもう一つそういうのを知っていて、林達夫の「歌舞伎劇に関する一考察」で、歌舞伎を前近代的なものとして批判しているのだが、これも、歌舞伎好きな人が褒めたりする。谷崎潤一郎の人形浄瑠璃批判「所謂痴呆の藝術に就て」とか、阿部次郎の近世文化批判『徳川時代の藝術と社会』は、あまり褒められない。
しかし、『暗夜行路』のどこが名作なのか、志賀直哉がなんで偉いのかさっぱり分からない私は、志賀崇拝者みたいな連中が、「暗夜行路雑談」を褒めると気分が悪い。藤枝静男はもちろんいい作家なのだが、志賀の弟子だというのが欠点で、志賀なぞより藤枝のほうが偉いのだ。
藤枝は、「暗夜行路雑談」に「成心がある」か、つまり「ためにする」かということにこだわっているのだが、「ためにする批判」というのは、明らかにあれの仕返しだな、という場合を除くと、批判された側からの、あまり根拠のない反駁であることが多い。中野は左翼だから、左翼でない志賀を批判するのは「ためにする」と言われたって、文学というのをそんなに公平に見られるものではない。『細雪』だってブルジョワ生活を描いているが、『暗夜行路』のような愚作ではない。私は本当に、志賀が偉いとか言う人に、どこが偉いのか問い詰めたいのである。