大宅壮一ノンフィクション賞が、今年から雑誌部門を設けた。だが実は初期のこの賞は、雑誌記事も対象にしていたのだ。それどころか応募原稿も対象だった。候補作は以下に掲げてある。
http://homepage1.nifty.com/naokiaward/kenkyu/furok_OOYAaward.htm
だが結局単行本しか受賞せず、1980年からは候補の段階で単行本だけになった。ところで1972年の候補作に、平岡梓の「倅・三島由紀夫」が入っている。
三島は、死ぬ前に、楯の会一周年記念式典でのあいさつを川端康成に頼んで断られ、恨んでいた。さして三島から愛されてもいないのに親ばかだった梓は、やはり川端を恨み、三島の葬儀で委員長を川端に頼むことに反対し続けた。村松剛らの説得で何とか川端がやったのだが、「倅・三島由紀夫」を『諸君!』に載せて、川端が葬儀の時ラジオを足元に置いていた、あれは外で騒乱が起きたら逃げるためだったろうと、かなり川端をバカにした口調で書いた。実際は川端は、録音機を置いていたのだという。さらにこの記事を『週刊文春』がとりあげ、川端に取材もせずに書いたため、川端は激怒し、社長の池島信平を自宅まで呼びつけて漫罵した。この件は『夕刊フジ』にも取り上げられ、梓は、「あれは冗談ですよ」と不思議なことを言った。
しかし、翌年正月、川端は文藝春秋に飄然と現れて講演を行い、文春とは和解したかに見えた。のちにまとめて刊行された『倅・三島由紀夫』では、この個所は削除されている。しかるに、4月10日ないしその前日あたりに川端宅にも届いたはずの『文藝春秋』に、この「倅・三島由紀夫」(『諸君!』12月号)が大宅壮一ノンフィクション賞候補作として載っているのを見た川端は、もはや自分はこの程度の扱いしか受けないのかと絶望した。
川端が自殺したのは、その六日後であるーー。