凍雲篩雪

死者にプライバシー権はない

 先日、別に深い関心があるわけではないが、一九一〇年代生まれの、著書も五、六冊はある学者で、さる大学の名誉教授だった人について調べたら、大学のウェブサイトに「故人」とあったが、没年が分からないので、大学にメールで問い合わせた。その前にも同じようなことが別の大学であったが、問い合わせたらすぐ没年月日を教えてくれた。だがそうとは限らないので待っていたら、「××氏とはどういう関係で、なぜ必要なのか」と言ってきた。こういう時、個人情報保護とか言いだす者がいるのだが、個人情報というのは生きている人間に関するもので、故人の個人情報保護というのはない。この時の相手はそれを心得ているらしく、最後までこの言葉は使わなかった。私は、特に関係はないし、当面何かに使うかどうかは分からないが、将来的に生没年をどこかに書くことはあるかもしれないと答えた。相手は、もっと具体的に利用目的を教えてくれと言う。このあたりで、もうこれは教えないなと思ったから、こっちも少し喧嘩腰に出て、なぜそんなことを言わなければならないのか、大学名誉教授の没年というのは公共的なことがらのはずだ、と言うと、相手は「必ずしもそうではありません。訃報をメディアに出す場合は遺族の許可をとります」と言う。
 訃報というのは死んだ直後のものだから、密葬にしたい場合もあり、それはいいが、とうに死んで「故人」と表示されているものについて、没年や月日を教えないことに何の意味があるのか、知られると誰がどう迷惑するのであろうか。私は、では「故人」と表示しているのも遺族の許可を得ているのですかと逆ネジを食わせたら、少しして「『故人』と書くかどうかも含めて、今後検討したい」と答えてあちらは話を打ち切った。
 大学教授というのは、国立はもちろん、私立でも、文部科学省の認可を受けている以上は公共的人物だと思う。精神科医香山リカ立教大学教授だが、実名は非公開となっている。文部科学省に届けてあるはずのものが非公開というのは、あっていいことなのか、疑問である。
 梯久美子の『狂うひと 『死の棘』の妻島尾ミホ』(新潮社)はすでに読売文学賞芸術選奨文部科学大臣賞をとっているが、梯はすでに大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、選考委員だったのが、賞自体がリニューアルして、大宅壮一メモリアル・ノンフィクション賞とかいう長い名前に変わり、一度受賞した者にも受賞させることになり、梯著も候補作になっているが、なんだか梯にもう一度受賞させるためにリニューアルしたみたいで、あまりいい気はしない。私は、どんないい本でも、一つ大きな賞をとったら、あまりそのあとで別の賞を授与すべきではないと思う。ところでここでは、これまで分からなかった島尾敏雄の愛人が突きとめられているのだが、それが「川瀬千佳子」と変名になっている。『新潮』連載時には書いてあった、雑誌寄稿文のことが削除されて、探索しづらいようになっている。だがこの人は故人で、もしかすると遺族などから要請があったのかもしれないが、ちと気になるところである。
二、先般、ちょっとまとまったカネを銀行で下ろそうとした。この銀行は、以前、自転車を数分停めておいただけで放置警告札を貼られるということが何度かあり、嫌になってそれ以来足を踏み入れていなかったのだが、久しぶりに出かけた。すると「詐欺」にあっているのではないかというので妙なアンケートに回答させられた。「息子さんやお孫さんから電話はかかってきましたか」などというのに「いいえ」にチェックするというバカバカしさで、しかもその下に「風邪で声がおかしいと言いましたか」とあるのだが、上の質問に否と答えているんだからこれに答える必要ないでしょう、と言った。だが仕方ないから記入して待っていると、別の中年の女性銀行員が来て、高井戸警察からの要望で、詐欺ではないことを確認するために、用途について証明するものはあるか、と言う。
 ということは、私がボケて詐欺に遭っていて、しかし詐欺実行犯から、銀行ではこれこれの用途だと言え、と言われて従っているということになるのであろうか。そんなこまごました指令に従わせる詐欺というのがあるのだろうか。そんな指令に従うくらい頭があっきりしていたら詐欺になんか遭わないのではないか。私は怒ってどなりつけ、それなら私が警察に電話すると言ったら引き下がったが、そもそも自分のカネを引き出すのにその用途を銀行に対して証明する何の義務があるというのか、そちらを証明してほしい。
 なぜこれだけ長期にわたってメディアで騒ぎ、こんな厳重警戒をしているのに、まだ詐欺に引っ掛かる人がいるのか、と言うに、それはその老人が寂しいからである。私は大学生の頃は、いくつかの詐欺に遭ったが、中でも謎なのは、デート商法に引っかかりかけたことがあることで、女性から電話がかかってきて、どういうわけか実家のそばの駅前で会うことになって、見ると美人で、喫茶店へ入って話を聞いて、けっこうなカネがかかると聞いて、あれっと思ってそのまま別れたのだが、なんでそんなものに会いに行ったのかといえば、寂しかったからである。
 今でもそれに類したことはあって、時おり、相場の勧誘とか、宝飾品を買い取りたいとかいう電話がかかってくる。着信拒否にしていたのが、一杯になってしまったのである。すると私は、あれこれ質問して話を長引かせ、しまいには相手がこれはからかわれているなと思って切るというようなことをする。忙しい時にはやらないが、たいてい暇な午前中にかかってくるのだ。
 これは、何やら相手をからかっているようではあるし自分でもそう思っているのだが、芯のところでは、寂しいからというのもある。何しろ今では学生を教えたりしていないし、会話の相手は妻と数少ない仕事の相手くらいである。
 図書館へ行くと、すいている時には、図書館員を話相手にしている老人がいる。私の母が死んでもう九年たつが、その二年ほど前に私を装った詐欺電話がかかったことがあった。しかし新宿駅で痴漢を働いて、本人は興奮状態で、などという早朝の電話で、そんな朝早くに私が新宿駅になどいるはずがないし、母も六十代半ばだったから何もなかった。当時は私も月に二回は実家に帰っていた。だが、詐欺に遭う老人は、ふだん息子は音信不通なのだろうし、相談相手もいないのだろう。寂しい上、自分は何の役にも立たないと思っている。そこへ電話があって、助けてくれと言われたら、寂しいから奮起してしまい、後先を忘れてしまうのだろう。その間誰にも相談しないというのも気になる。
 ところでここに「自分だけは引っかからないと思っている人は」といったことを言う者がいるのだが、町中を歩くと、自分だけは交通事故に遭わないと思っている人が異常に多い。図書館へ行く三十分の間に、歩きスマホとか、自転車スマホとか、はては乳母車スマホなんてものに十人は出くわす。
 これは結局、人間が退屈する生き物だからで、歩きたばこにしても、本来は退屈を紛らすものである。ことに老人は膨大な時間をもてあましており、高齢化社会を迎える日本は、安全に退屈を紛らすことを考えなければならないと思う。