呉智英さんの『吉本隆明という共同幻想』を読んでいて、『言語にとって美とはなにか』が『言語美』と略されることを初めて知った。かつて蓮實先生が、一冊の書物であることの必然性が疑わしかった、と言ったが、私も同感ながら、今ではもちろん、全然存在価値を認めていない。
さて呉さんは、これが、プロレタリア文学理論に抵抗して、それとは違う文学理論を打ち立てようとしたものだと縷々解説しているのだが、読んでいる最中に頭がぼうっとなって、というのは、まあたとえて言えば宗教団体の中における、外部の人間にはまったくどうでもいい路線対立の内容を解説されているような気がしたからである。
いったい、「文学理論」というものは、大別して二種類ある。これまで、ないしこれから小説や詩の実作を世に出すぞ、というある傾向を持った人々が、その理論的支柱として出すもので、これは演劇にもある。唐十郎の『特権的肉体論』とか、平田オリザの『都市に祝祭はいらない』とかである。
もう一つが、過去の文学作品を整理分析して、研究として提示する「文学理論」である。こちらは、ノースロップ・フライとかウェイン・ブースとかがある。これは玉石混交で、漱石の「文学論」などは、私はまったく評価しない。
さて前者について言うと、だいたいかけ声倒れが多く、いくら壮大な理論を構築しても作品ができなければそれまで、また唐十郎のように、作品が既にすごいので、理論はあとづけだろうというケースもある。私はマルクス主義者ではないし、ましてや、政治思想が文藝などによって表明されたり強化されたり推進されたりするとは全然思っていないので、プロレタリア文学理論になど何の関心もなく、ひいて吉本が、それとは別の文学理論を作ろうとした理由も分からないのである。しかも吉本の理論は「後者」であるらしく、何も作家たちよ、俺の理論にのっとって作品を作れというのでもない。となると関心はどどーんと低下する。批判する意味さえ見出せないのである。
ところで呉さんの「ベクトル」という言葉の使い方がよく分からない。知識人とは「あるベクトルをもった」存在だと言うのはともかく、138pで「私の知識・言説は商品としての流通力も弱く、ベクトルもさほど強くない」というのは、方向性がさほど明瞭でないという意味なのか。平易に書く、難しげな言葉は使わないという方針のはずの呉さんにしては、「ベクトル」という言葉が無意味に頻出する気がする。