凍雲篩雪

二、ジョン・K・ガルブレイスの『不確実性の時代』の邦訳が出て話題になったのは一九七八年だが、この「〜の時代」というタイトルはほかにも多く、一時は流行した観もあった。一九八〇年の大河ドラマが、明治維新期を扱った「獅子の時代」である。題名として何かかっこいい。鎌田敏夫脚本のNHKのドラマ「優しい時代」(一九七八)や、遠藤周作原作の映画「妖女の時代」(一九八八)があり、あとはあちこちで使われた「地方の時代」とか「こころの時代」というのもある。
 小此木啓吾モラトリアム人間の時代』(一九七八)や、山田昌弘パラサイト・シングルの時代』(一九九九)も話題になり流行語になったが、考えてみるとこの二つは、親離れできない、大人になれない若者が増えているという意味で同じ系統のものだ。
 こういう「今、こういう時代だ」という「〜の時代」のほかに、過去のある時代をとらえた、山崎正和『不機嫌の時代』(一九七六)藤井淑禎の『不如帰の時代』(一九九〇)、佐藤卓巳の『『キング』の時代』、関川夏央原作の漫画『『坊っちゃん』の時代』などがそうであろう。このタイトルを好む著者もいて、渡部昇一は、『文科の時代』(一九七四)以来、『腐敗の時代』『正義の時代』『レトリックの時代』『知的対応の時代』を出している。木村尚三郎にも『ケジメの時代』(一九八二)ほか一冊がある。
 こういう題名は、三島由紀夫の『青の時代』(一九五〇)が最初で、ヘミングウェイの『われらの時代に』、大江健三郎の『われらの時代』、栗本薫の『ぼくらの時代』などもある。だが中には意味不明なのもあって、渡辺利夫の『神経症の時代 わが内なる森田正馬』(一九九六)は、別に神経症は今でもあるし、なんで「時代」になるのか分からない。荻野恒一分裂病の時代』(一九八〇)もそうだ。
 これと似たものとして「〜の世紀」というのもある。大正時代に訳されて話題になったエレン・ケイの『児童の世紀』あたりが嚆矢だろうが、大佛次郎の『天皇の世紀』や、佐伯彰一の『自伝の世紀』がある。これは「時代」よりも、題名としてはかっこよく、私も使いたいと思っているのだが、機会がない。大佛の場合は十九世紀のことで、佐伯のは二十世紀らしいが、「の時代」や「の世紀」は、題名としてかっこよくはあるが、あまり濫用するものではないなと思う。大した意味はないが、『神経症の時代』が私には気になっていただけのことである。