呉智英さんの新刊『吉本隆明という共同幻想』は、呉智英さんの懺悔の書ともいえる。学生時代、先輩たちからバカにされないために必死で吉本を読んだ、といった話がちりばめられている。
私は呉さんの『読書家の新技術』で、『共同幻想論』について、吉本は文章が下手、しかし内容は重要、とあるので、長くそれを信じていたが、もう十年くらい前には、内容が重要とも思えないという結論に達していた。だから呉さんのこの本も、あまりに出るのが遅かった、ミネルヴァのふくろうである。20年前、せめて10年前に出ていたら、快著だったかもしれない。
『マチウ書試論』など、私には、右の頬を打たれたら左の頬をさしだせ、というのが、嫌味な復讐だ、というところがキモなんだと思っていて、前から「関係の絶対性」というのは言われていたが、それで読み返すほどの関心はなく、今回初めて、意味が分かった。いや、本当は分からない。柄谷行人の「マクベス論」というのもそうなのだが、どうもこういう論は、左翼のセクトとかにいて、組織の論理に染まったことがないと分からないらしい。つまりヨコタ村上孝之が、比較文学などやめてしまえと言いつつ、比較文学会に居座り続けるのも、「関係の絶対性」なんだなということで、そりゃ別に普遍的な定理ではなくて、組織にしがみつかないと生きていけない情けないやつらの理屈でしかないんじゃないか。
『言語にとって美とは何か』のところも、途中で頭がぼうっとしてきて、どうでも良くなる。そもそもなんでプロレタリア文学理論に抵抗しなけりゃならんのかも分からないし、なんで文学理論が必要なのか、も分からんのである。ここのところは、まだ呉さんがある程度吉本に近いところにいるから分かるのであって、私だったらとても一冊分書くことは出来ないだろう。あの言っときますけど時枝誠記がどうとか、学問的には意味ないですから。
まあ私にとっては「思想家」というのが何なのかすら分からないわけで、ヘーゲルだってインチキなんだから、吉本なんかさらにいなくてもいい存在なのである。宮崎哲弥は、吉本と一冊分の対談をしたのだが、これを没にした。