川田宇一郎『女の子を殺さないために』(講談社)を読んだが、予想通り、ダメだった。で、これを書くかどうか思案した。この人は23歳で群像新人賞優秀作になっており、それから16年たって初の著書が出たことになる。大学院にいたからこれは筆名でもしかしたら本名での論文などがあるとか本業があるとか、そういうこともあるかもしれないが、そうでないとしたら苦労人だし、別に今のところ世間で高い評価を受けているというのでもないし、私が批判してしまうと、それこそ江藤淳が福田章二を葬ったのの十分の一くらいの効果があるだろうからだ。
 文藝評論というのは、今ではもう往年のように大手出版社からは出してもらえない。こんな、米光一成みたいな文章で書かないとダメということで、それも同情するが、私が疑問なのは、果してこの人は、実際はもっとたくさん本を読んでいるのにあえて触れないのか、それとも本当にこの程度しか読んでいないのかが分からないということだ。
 たとえば私の『恋愛の昭和史』があげられていたら、私ももうちょっと甘くなったのだろうが、これがない。田嶋陽子の『フィルムの中の女 ヒロインはなぜ殺されるのか』もない。それに、庄司薫村上春樹を結ぶなら、その延長上にあるのは堀辰雄だろう。なんで川端なのか。江藤淳は堀を批判することで、暗に春樹を批判したとされているのである。だからこの本の川端に関する箇所は、ことごとく腑に落ちず、庄司薫の筆名が「伊豆の踊子」由来だというのも疑わしい。それに、女が気が狂うという話なら、古井の「杳子」と『ノルウェイの森』の間に、五木寛之の『四季・奈津子』における妹芙由子がいるので、これも『恋愛の昭和史』に書いたのだ。それに、ヒロインが死ぬといったら『虞美人草』と『或る女』の、処罰とされている死を扱わないといけないだろう。川田がそれを知らずに書いているのか、知っていて論旨の都合上無視したのか、分からない。
 『風の歌を聴け』の「あとがき」に出てくる架空の作家デレク・ハートフィールド庄司薫に重ね合わせる手つきもはなはだ危なっかしい。福田章二がデビューしたのは21歳7月とし、ハートフィールドも21歳でデビューとしながら、いつの間にかハートフィールドにも「7か月」がついていることになっているし、ハートフィールドが自殺してから「書き手」が生まれるまでの「十年六か月」を、福田章二が沈黙してから庄司薫が登場するまでの年月と重ねるのも無理やりだし、ハートフィールドが作家活動をしていた八年二か月を、「庄司薫」が『ぼくの大好きな青髭』を刊行するまでの年月と重ねるのも無理やり。注で触れているが、庄司は別にそこで「沈黙」はしていなくて、『ぼくが猫語を話せるわけ』を出している。これだけ無理やりな操作をして「三つも一致する偶然はほとんどない」と言われてもねえ。
 あと二葉亭四迷が父親から「くたばってしまえ」と言われたというのも間違い。自嘲。
 川端康成が「伊豆の踊子」でノーベル賞をとった、ととれる文章があるが、そんなわけはなくて、一般的には『雪国』『千羽鶴』『古都』の三作で、である。

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ウルトラマンティガ」に「イーヴィルティガ」ってのが出るけど、evilの発音はイヴル。