世間が分かる

 必要があって『佐藤栄作日記』を読んでいたら、秦野章が久しぶりに来た、というのがあった。秦野は1971年の都知事選で自民党から立って美濃部に惨敗したのだが、自民党に対しては不満たらたらだったらしい。石原慎太郎が立つ話もあったのだが、もし石原が勝って四年やって党へ帰ってくると党内の年齢秩序が乱れると言って反対する人があったようだ。確かに1971年、石原は39だから、無理もない。しかし石原は不満たらたらで、『諸君!』で高坂正堯と対談して、自民党をぼろくそに言った。すると三島由紀夫が「毎日新聞」に「士道について」というのを書いて、自分の党の悪口を言うのは士道に反するとした。それで、三島と石原は決別したので、それで石原は憂国忌に参加していない。
 言うまでもなく、秦野が敗れた次には石原が立ち、僅差で美濃部に敗れた。
 それはさておき、秦野が来た時佐藤は、都知事選後、しばらく姿を見せなかったが、漸く世間というものが判ってきたらしい、と書いている。これには、ぞっとした。 

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私は『南総里見八犬伝』の最後の管領戦で、大量虐殺兵器を用いての戦が十二月八日に行われることについて、最初の本で、非科学的な感動めいたことを書いたのだが、大島建彦編『コト八日 二月八日と十二月八日』(岩崎美術社、1989)によると、民俗的に、この二つの日は、ことはじめに使われることが多かったらしい。

コト八日―二月八日と十二月八日 (双書 フォークロアの視点)

コト八日―二月八日と十二月八日 (双書 フォークロアの視点)