谷崎潤一郎が『春琴抄』を出した時、川端康成は文藝時評でこれを絶賛しつつ、春琴が小鳥を飼っている、そこのところがおかしく、谷崎は小鳥を飼っていないだろう、と評した。川端は「禽獣」を見ても分かるが、犬だの鳥だのたくさん飼っていたのである。
私は高校生の時に、竹下景子さん目当てで飯田橋ギンレイへ「祭りの準備」を観に行ってまったく驚いたのだが、数年後、テレビの映画批評めいた番組で、女の評論家がこの映画について、「最後に(主人公が家を離れて東京へ出ることのメタファーとして)家の籠から小鳥が逃げ出すでしょう。ああいうところがちょっとねえ」などと言ったのである。私は、ほう、映画批評というのはそういう風にやるものか、と感心して、もしかしたらものすごく恥ずかしいことに、誰かに受け売りしたことがあったかもしれない。
今から12年前、私が売れっ子評論家だったころ、「アメリカン・ビューティー」という映画のパンフレットに解説を書いたことがある。しかし実は試射を、歌舞伎座の向いの松竹の試写室で見せられて、これのどこがそんな名画なのかと唖然とし、困惑して、まるでわけの分からない文章を書いてしまった。
その時も、盛んに、ビニール袋が風に飛ばされる場面がいい、とか言われたもので、私は、そんな場面ひとつで映画がよくなるんかい、とけっこうイライラしたものである。
これは蓮實先生の受け売りだが、淀川長治が日曜洋画劇場で、どうしようもない映画が放映された時に、柩が階段を下される場面で、ごとん、ごとんというところをとりあげて、あそこ、すごかったですねえ、と言ったという話がある。これは、全体として褒められないから、部分を褒めたのである。
しかし、そういうわけではなく、ただ妙に小さな部分にこだわるのを「部分批評」と呼ぶと、これは日本では、大正時代後期から、新潮合評会などで行われていた。時には、全体を語るのを抛棄して、あそこのところが、などとやるのである。これは、文藝時評でも時おりやる人がいて、群像の合評会などでも出てくる。最もあほらしい批評である。
たとえば芥川の「羅生門」の最後は「下人の行方は、誰も知らない」というのが、ついたのをとったとか言い、あった方がいいかない方がいいかと議論になったりするが、私はどっちでも大して変わらないと思うし、第一「羅生門」を名作だとは思っていない。
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先日の清水基吉だが、いずれの件も自分で書いていた。
「受賞不肖<文壇には出たけれど>」『新潮』1956年1月では、
或る日、島木さんを訪ねてみた。奥さんが私をとりついで奥へ引込んだが、氏は私の名前なぞ知る筈がない。とても逢つてくれそうにないので、紹介状がわりに芥川賞を貰つたことを伝言してもらうことにした。氏はそれで逢つてくれたが、この芥川賞作家を持ち出したことがこんどは私の悪評のはじまりになつた。「思いあがつているナ」というようなことで、私が富山の薬売りであるとか、…何か芥川賞以外に名乗るべき肩書さえあつたら、そういうことにはならなかつた筈である。
もっとも、この文中で、台湾拓殖銀行総裁の加藤恭平が伯父であるとか、ちゃっかり家系自慢をしている。
あとは「酒乱記」『新潮』1957年3月で、
戦後の昭和二十何年かの新年、鎌倉文庫の重役連中が川端康成氏の宅に集まり、新年宴会を盛大に行つた時、中山義秀氏の後についてノコノコと顔を出し、酔うて高見順氏にやられたのもこの口のわざわいのなせるところだ。当日の席中に文壇の諸公キラボシの如く並んでいたから、噂がひろまりついにわざわいの決定打となる。乱酒(ママ)のレッテルもこのあたりから始まつたのではないか。
【レッテル】ある人物や物事に一面的な評価を与える。(岩波国語辞典)
いや、レッテルじゃないから。あんた酒乱だから。