中村健之介のドストエフスキー

 鹿島茂は延々と「ドーダの文化史」だか何かを『一冊の本』に連載し続けていて、最初は面白かったのだが、これって何にでも適用できてしまうので、近頃は読んでいなかったが、ふと覗いたら小林秀雄で、小林はあれもダメこれもダメと否定しておいて、自分の母親みたいなものを持ち出して、これには誰もかなわない、とやる、と書いてあってそれはおかしかった。
 で、『週刊文春』を立ち読みしたら、鹿島が書いていた。「ドーダ」は、その前がドストエフスキーだったらしく、それに共感した中村健之介から、講談社学術文庫に入った『ドストエフスキー人物事典』を送ってきたという。私は往年、中村氏と面識もあった当時、朝日選書のこれを購入したのだが、分厚くて別に読む気にもならず、いつしか古書店へと去って行った。
 鹿島によると、中村は、従来のドスト研究はドストエフスキー・カルトになっていた、と言っているというから、驚いたのだが、まあ続けると、それを超えるためには、名作とか駄作とかの区別をやめて、全作品を読んで全体像をとらえるのだ、というのである。しかしそんなこと「カルト」でなくてやれるか、と思うのだが…。鹿島は、バルザックもそうだ、と言う。バルザックなら私も好きだからいいが、だいたい、なんでドストに半生を捧げたりするかといえば、ドストの作品に感動したからであって、私のように感動しない人間からすると、カルトである本人が、カルトを乗り越えるためには全作品を読んでうんたら、とか言っているとちょっと怖いのである。何かそれは、小宮豊隆を超えるとか言いつつ小宮以上の漱石カルトになってしまった江藤淳を思わせる。
 それで、登場人物の誰ちゃらとか誰ちゃらは、今でいえば引きこもりみたいなやつで、とか言われても、へえそうですかとしか思わない。何度も言うが、ドストは、キリスト教徒でなければ意味のないことをたくさん書いていて、中村健之介は、ドストを離れたなと思ったら宣教師ニコライの研究を始めた骨の髄までのキリスト教=ロシヤ正教の徒である。
 ついでに言っておくが、マルメラードフのキャラクターとかいうのも、私はむしろ不快である。ああいう人間を見るとうちの父親を思い出すからである。