プラックローズら「「社会正義」はいつも正しい」 書評 小谷野敦(読書人)

 少し前に、『現代思想』(青土社)が「ポストモダン」を擁護的に特集した際、謳い文句に「アカデミズムの外で詭弁に使われ」とあるのを見て私は「中で」の間違いじゃないかと思った。しかし日本のポモ思想は、何やら現代版禅仏教みたいになり、おとなしい草食動物みたいだと、本書を読むと感じる。本書の著者二人は、「第二のソーカル事件」とされる、ピーター・ボゴシアンの盟友で、ニ十本のポモ風インチキ論文を査読雑誌に投稿してうち七本が掲載されるという事件を起こし(なおこの論文のうち二本は本書の帯で紹介されているが、詳細な内容は本書内にはない)、そのためボゴシアンは勤務先の大学を辞職させられたが、その後、クイア理論をへたポモの「社会正義理論」の影響もあり、キャンセルカルチャーやマイクロアグレッション(些細な過去の発言をとりあげて叩くこと)、つまり「ポリコレ」と言われるアメリカでの知識人の内部抗争が激化したり、BLM運動に発展したりした中で、本書はその中核を、学問的には死を宣告されたポモ思想が、人種・ジェンダーなど被抑圧者解放運動に利用され、難解で実は内容空疎な理論によって武装し、リベラリズムすら踏みにじっていくさまを描写しているが、これを書くためとはいえよくぞこんなバカバカしい論文やら著作を精読したものだと感心する。もっとも、リベラリズムポストモダンが対立しているというのが、ポモ側でも認めていることなのかどうかは分からないが、その理由はリベラリズム啓蒙思想が、白人男性が作ったものだからだという。いわゆる「アイデンティティ・ポリティックス」で、これが、演劇においてもゲイの役はゲイが演じろ、ろうあ者の役はろうあ者が演じろといった主張につながっていく。そうなると最終的にはフィクションはみなダメで、私小説かドキュメンタリーしか残らず、フィクションとしては小説も映画も滅亡するしかないだろう。
 私が大学院一年の時、駒場の院生だったがちょうど中沢新一事件が起きたが、そのころは私も「ポストモダン」が新しくて正しいのだと信じていた。同時にそのころはポモは非政治的で古いマルクス主義と対立するものと思われていた。だが月日は流れ、ポスコロやカルスタがはやって、ポモは論理を敵視する非学問だと私にも見極めがついた今ごろになって、ポモとフェミニズムジュディス・バトラーにおいて悪魔結合してこんな展開になるとは思わなかった。構築主義というのは、客観的実在を否定するトンデモ思想で、上野千鶴子編『構築主義とは何か』というのがあるが、あんなものに寄稿してしまったと後悔していた学者もいた(ある程度は社会的に構築されているということは認めるにしても、わざわざ構築主義を持ち出す人は、たいてい自然科学の裁量する範囲を超えている)。本書の主たる訳者で解説も書いている山形浩生は、マルクス主義が失墜してやけっぱちになったからこういうポモが出て来たと言うが、実際にはまだマルクスをやっている人はいるし、むしろ人文系学者の、やることがなくなり、世間からも無用と思われている焦りと、実在などすべて幻想であるといった言い方(仏教に似ている)に若者(と若者的精神の持ち主)が面白さを感じることから来ているように思うし、ポリコレに名を借りた「つるし上げ」は、要するに「大人のいじめ」ではないかと私は思っている。ポモというのは不思議なもので、九〇年前後、ポモの有名学者の非論理的な文章の引用はいいが、書き手である若い学者の文章は論理的でなければいけないという「ダブスタ」に悩まされたものだが、どうやら博士号をとるまでは論理的にやって、あとはわやくちゃになるのがポモ流らしく、サイードなどは博士論文のコンラッド論からあとは学術論文は一つも書いていないと言われた。
 ポモといえばデリダドゥルーズかと思いきや、ここで「応用ポモ」とされている社会正義ポモに多大な影響を与えたのはフーコーらしい。フーコーには歴史家的な面もあるから、そこから入り込んでしまうのだろうか。しかるにフーコーは白人男性だから、フーコーの名前を隠蔽する過激ポモもいるというからおかしい。あとは障碍者や肥満に対して、それは重要なアイデンティティだから、緩和したり治療する必要はない、というポモもいるので、本書では肥満は健康に対して危険だとくりかえし述べているのだが、それなら飲酒とか喫煙に対しても同じような勢力が現れてもいいはずだが、それは輿論が認めないからやらないのだろう。ずいぶんオポチュニスティックな"運動"である。あとは経済的格差についてもポモは無関心らしいし、本書の著者も書いていないが、現代の社会正義ポモは、前近代の遺物たる君主制のヨーロッパにおける多量の残存に対してまるで怒りを感じないらしいのは不思議なことだ。
 本書は最後に、リベラリズム啓蒙主義に立ち返ることを提唱して、ずいぶん細々と書かれているが(なお人類のリベラルな進歩に貢献した人々の名前が列挙されるところでー三〇八頁ールソーの名前がないのは意図的なのか気になった)、実際の社会正義ポモの人々がこれを読んで反省するなどということはまずあるまい。つまり本書はまともな学問の理解者が、このような事態になっているのか、とため息をつくためにしか存在しないのである。しかし私としては、ジュディス・バトラーとその追随者はとても許せないと思う。自然科学をまったく無視した非学問をもって通用させていたり、それを日本に招聘して名誉博士号を与える大学があったりするのは実にやめてもらいたいと言うほかない。
 訳文はもうちょっと分かりやすくできたのではないかと思うが、「メタナラティブ」をそのまま使っており、これはカッコつきの「大きな物語」にしたほうが良かったのではないか。もとのタイトルは「シニカル・セオリーズ」だが、カルトだからシニカルではないように思うし、邦題も、皮肉であることが伝わりにくい気がする。「カルト化するポストモダン」と帯にあるが、こういう邦訳題のほうが良かったのではないか。