ヴェンセスラオ・デ・モラエス

 以前、東大で一年生を教えていた時、日本へ来て最初に日本を紹介した西洋人は誰だ、と訊いた。私としては、「シーボルト」と言われたら、もっと古い人、と言って、ルイス・フロイスへ辿りつくつもりだったのだが、理系だったせいか誰も分からず、ただ一人だけ「モラエス」と言った学生がいた。それじゃラフカディオ・ハーンより新しい。
 佃実夫の代表作『わがモラエス伝』をようやく読んだ。ようやく、というのは、長いのである。二段組本文を見た時はぞっとしたものだが、読んでいくと、伊達に長いわけではない、のではなくて、無意味に長い。佃自身のモラエス探訪を、モラエス伝と混ぜて書くという構想はいいのだが、後半に来ると、くりかえしが多いしくどい。モラエスがおヨネの幻を見るシーンがしつこい。しかし、いったんここまで書いてしまうと、削れなくなる心情も分かるので困ったところだ。
 モラエスポルトガルの海軍士官である。気が狂った従兄の妻である八歳年上の女と激しい恋愛に陥り、肉体関係もあったらしい(ただしモラエスについては岡村多希子の本が出ているから、そこはどうなっているか知らない)。しかしカトリックの彼女は、モラエスとの駆落ちを拒否、失意のモラエスは任地のモザンビーク東ティモールなどを転々とし、モザンビークでは現地妻もあった。その後マカオへ移り、ここでは現地妻に二人の男児を産ませている。
 日本へ移ったのは明治末年、40歳を過ぎてからで、神戸総領事となる。ここで斎藤ヨネという藝者の愛人を得て、同棲するがヨネは大正元年に死んでしまう。その後、長原デンという女とともにその郷里の出雲へ行こうとするが、ヨネの姪の小春とともに、ヨネの郷里徳島へ移住し、ポルトガルの公職を捨てる。しかし小春には愛人がいて、その子を二人も産んで、その後死んでしまう。50を過ぎて孤閨となったモラエスは、第二のハーンよろしく、日本を描いた随筆類をポルトガルで刊行し続ける。ピエール・ロティは、僅々二度日本を訪れたに過ぎないが、フランスでは文豪である。モラエスも、ほかにあまりポルトガル文人がいなかったせいか、本国では文豪扱いだが、ハーンだけが、本国がないせいもあるが、英米ではさして知られてはおらず、日本でだけやたら有名である。
 徳島の人々は、モラエスの前身も知らず、ただ異様に背の高い西洋の老人ということで気味悪がった。モラエスは昭和四年に孤独死するが、その後、モラエスを伝えようと努めたのは、徳島の人たち、翻訳したのは花野富蔵、そして徳島図書館司書だった佃である。何しろポルトガルで初めてノーベル文学賞をとったのがサラマーゴなのだから、寥寥たるもので、モラエスも佃の小説で嘆いているが、かつてイスパニアと覇を競ったポルトガルは19世紀には凋落していた。英米仏のおかげで忘れられているが、ポルトガルモザンビークアンゴラ東ティモールマカオといった植民地を、こないだまで持っていた国である。私が子供の頃の世界地図では、モザンビークアンゴラは(ポ)とあった。
 モラエスの代表作は『おヨネとコハル』だが、これは岡村の新訳もあるが、文庫版になったことはない。佃の本もなっていない。ただ花野が訳した『日本精神』と岡村が訳した『徳島の盆踊り』だけが講談社学術文庫に入っている。今日ポルトガル語は、ブラジルへ行く人のための学習語になっている。
 あの学生は、徳島の出身だったのだろうか。いや、そうではあるまい。

おヨネとコハル (ポルトガル文学叢書)

おヨネとコハル (ポルトガル文学叢書)

徳島の盆踊り―モラエスの日本随想記 (講談社学術文庫)

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モラエスの旅―ポルトガル文人外交官の生涯

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