エドマンド・キーン

 大場建治の『英国俳優物語 エドマンド・キーン伝』(晶文社1984)を読んだが面白かった。その後、フィッツサイモンズの『エドマンド・キーン伝』の邦訳も出ているが、これは見ていない。
 シェイクスピアに関する著作は山ほどあるが、それ以後の英国演劇に関する日本語で読める著作というのはあまりなくて、19世紀はじめの俳優伝を語りつつ、英国演劇の歴史がよく分かった。
 日下武史が『ヴェニスの商人』のシャイロックをやり、法廷の場で敗れたシャイロックが、ばさっとマントをひるがえして退場する場面で、シャイロックの悲劇性を浮かび上がらせたという話を確か小田島先生から聞いたのだが、悪役から悲劇の人へというシャイロック像の変容は、キーンで始まっていたようだ。それまでは、17世紀には滑稽な人物、18世紀には悪玉として、赤いかつらをつけて演じられていたのが、キーンは黒いかつらでむしろユダヤ人性を強調したという。
 キーンといえば、サルトルの戯曲『狂気と天才』を江守徹が演じたので知られるが、私はこれを観ていない。サルトルのは、大デュマのものを改作したものだ。
 シェイクスピア劇が、19世紀半ば以後まで、改作で演じられていたのは良く知られている。『リア王』がハッピーエンドになっていたのが有名だが、『リチャード三世』はそれよりずっと長く、『ヘンリー六世』の最後から始まるシバーの改作で上演されていた。
 今ではどこでもシェイクスピアの原典で上演されるが、私はちょっとその改作も観てみたいと思った。原典が一番いいというのも一種のイデオロギーだと思う。近松門左衛門なども、『冥途の飛脚』などは半二の改作で上演されているし、『曽根崎心中』も昭和30年代の宇野信夫の改作であるが、後者は原典通りやったらさぞ退屈だろう。『ハムレット』についての諸家の批評も面白い。
 劇場や興行主からの劇評の自立という話もあるが、どうやら、劇評の自立ということは東西で繰り返され、また興行主の言いなり評論となり、しているらしい。
 これは英文学者としては、あちらの研究をもとにして書いているからあまりオリジナルな業績とは見られないのかもしれないが、むしろ西洋を対象とする学者は、しっかりあちらの研究を紹介してくれればいいのだ。
 あとがきには、『テアトロ』連載中、中野里皓史先生が当時ロンドン留学中でいろいろ世話になった、とある。私の英文科時代の先生である。

英国俳優物語―エドマンド・キーン伝

英国俳優物語―エドマンド・キーン伝