弁護士について

 「こういうケースは、裁判にするとどうなるのか」という疑問については、仁鶴の番組も延々やっているし、実用書とか研究書もたくさん出ている。ということは、勝てない裁判は起こさない、ということになるが、それでも起こる。勝てなくても戦いたいとか、輿論を喚起したいというなら分かるが、そうでなくても起こす人はいる。法律は複雑だから弁護士がつくのだが、ついていてなお、勝てるはずのない提訴をする人もいる。
 微妙なケースとか、もしかしたら新しい判例が出来るかも、というのはある。本来は勝てないはずのものを、東大教授とかを証人に立てて勝ってしまうこともある。しかし、あまりにそういう情報が一般人にゆきわたると、弁護士が失業してしまうから、巧みに隠蔽しているのではないかと私は疑っている。あるいは弁護士に相談して、これは勝てないと思っても、カネ欲しさに手を出してしまう弁護士というのもいて、それが意見表明のためとか、勝てなくてもいいから、と依頼人が言ったというのでなければ、悪徳弁護士ということになるだろう。

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大江健三郎の「僕が本当に若かった頃」には、大学へ入ったばかりの大江が、新泉駅でドアが開かずに困るという場面がある。ところが妻に話したら、新泉駅で前二両はドアが開かないことを知らなかったので、調べたら1995年にその状況はなくなっていた。てことは33歳以下の人は知らんということか……。
 同題短篇集に入っている「茱萸の木の教え・序」は、例によってどこまで本当だか分からない私小説的作品だが、大江と同年の従妹で、学生運動をやっていて、50代くらいで死んでしまう女の話だが、その二番目の夫が、一橋の院生から、京都の私大の社会学部長になった八木原という。1992年の作品だがその当時京都の私大で社会学部があったのは竜谷大と仏教大しかないので調べたが分からなかった。まあどこからフィクションか分からないのであるが。

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西山夘三早川和男『学問に情けあり‐学者の社会的責任を問う』(大月書店、1996)は、冒頭に西山と早川の対談があり、政府の審議会が批判されて、何年も審議会委員を務めて何も発言しない人がいるとか、そういう人のほうが「賢明」なんですよ、などと言われている。しかし、西山はこう言う。

いまのところ日本では学問の自由も大学の自治も一応ありますから、学界から追い払われることはありませんが、危険な学者だという烙印を押されて、敬遠されて、研究者とのつきあいが失われる。私のばあい、話を聞きにくるのは新聞記者だけですよ。

 これにはつい失笑した。今ではもはや、その新聞もダメなのだから。

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成田成寿(しげひさ)(1907-86)という英文学者がいた。東京教育大名誉教授で、古い英語の辞書などで名を見るが、割と業績のある人かもしれない。まあこの名前のセンスがちょっと面白い。その人に『イギリス娘-ヨーロッパ紀行』(研究社、1955)という著書がある。『アメリカ娘』もあるのだが、題名にひかれて古書で購入。内容は普通の英国紀行だが、「イギリス娘」という節があった。

 イギリスでは、特に、子供がかわいらしく、若い女たちが美しい。その薄紅いのさしたクリーム色の皮膚、柔い体の線、それに淡い髪の色―私は時々、どうして、かれらが、このようにかわいく、美しいかということを嘆息まじりに考えこむのである。それにしては、年とった女たちは、あまりに醜い。いや年をとらなくとも、三十代を過ぎたか過ぎぬと思うころに、多くの女性たちが、特に中産以下のものの場合、たちまちに、その美しさを失うように見えるのは、どういうことであるか。(どこの国もおなじことかな!)年とった彼女らの尻は駑馬の尻のごとく突き出、首は牡牛のごとく、胸は駝鳥に似、その顔は年とった軍鶏を思わせる。若い娘たちの、すんなりとした肢体での薫風のような歩き方も失われ、のっしのっし、あるいは、よたよたと歩く。