http://www.nichibun.ac.jp/~sadami/what's%20new/2011/koyano509.pdf
もう終わりかと思ったらまだ続いていた。さすがに鈴木氏も、20年かけてやってきたことを今さら間違っていましたとも言えないだろうから、私も終わりにするつもりである。鈴木氏は戦略だの概念編成だのと言うが、要するに事実を見ることを忘れているとしか言いようがない。もちろん議論は終わっている。鈴木氏の敗北である。
1935年頃までに「純文学/大衆文学」の区分けが生じた、というのなら、別にそれはいい。しかし鈴木氏は、1961年と書いているのであって、それは無茶であって、事実を無視するものだというのだ。それで鈴木氏も一時動揺して、1935年頃には出来ていたと書いたのだが、また思い直して、どこでそんなことを言ったかと凄んでいる。凄んだって書いている。そしてそれが正しい。もし菊池が「純文藝」と書いたら、異論百出だったろうなどと書いていたが、いったいどこで「純文学」と書いて異論百出した事例など、あるのか。ないのである。ならば世間は、なんで芥川賞と直木賞があると思っていたのであろう。純文学と大衆文学に与えられると思っていたに決まっている。鈴木氏は、なんか奇矯な説を唱えようとして、61年などということを言いだし、引っ込みがつかなくなっているのだとしか思えない。
また、「純文学/大衆文学の区分が鑑賞眼を阻害している」と書いたのを、なくせばどうして鑑賞眼が上がるのか、と書いたら、そんなことは言っていない、という。それや論理的には「なくせば鑑賞眼の阻害がなくなる」であろう。しかしそれは同じことだ。小田切秀雄が山本周五郎を読んだことがなかったのなら、それはそれでよい。私は山周だって赤川次郎だって読んでいる。それでどう鑑賞眼が曇っているというのか。
なお誰が先に仕掛けたか、などということは関係ないことである。それではまるで佐藤優である。柄谷行人とのいきさつが書いてあるが、それは湾岸戦争の時の反戦署名に鈴木氏が加わったあとのことなのか。柄谷との関係を言うならば、あの署名について言わなければ何も分からないであろう。鈴木氏が「起原論の陥穽」を書いて柄谷を批判したのは、あの反戦書名から半年ほど後のことである。
紅野謙介は54歳である。20年来の鈴木氏の仕事くらい読んできているに決まっているのであって、それをとらえて、まだためらっているというのはムリがあろう。
なお鈴木氏はここで、
http://www.nichibun.ac.jp/~sadami/what's%20new/2011/koyano428.pdf
「ヨーロッパにもアメリカにも、「純文学/通俗」という二分法、「ここからは『純文学』、ここからは『通俗文学』」などということが、通念や制度として成り立ったことはありません。」
と言っている。私はそれに反論するために書いているのだが、どうせ鈴木氏は、またわけの分からない説明をするだけであろう。不思議なことに鈴木氏は、近代日本については「純文学」「大衆文学」という言葉に執拗にこだわるのに、「民衆」「大衆」といった語については、平然とpopularとかmassに対応させている。太国間の比較においては、概観しかできないのであって、実証的比較文学というのは、影響関係の研究だけなのである。
もしかすると、「純文学/大衆文学」という語および区分がはっきりしたのが昭和以降だということが、一般化されていないということが言いたいのだろうか。私にとっては、それは自明のことなので、気にならないだけなのだろうか。
「三浦綾子の言を倒錯といっているのです。」
私は三浦が、自分の作品は純文学だ、とどこで言ったのか知らない。あと紫式部文学賞が功労賞でないというのはいいが、それならなぜ桐野夏生の『女神記』のような、桐野の作としても不出来なものに授賞したのであろうか。
あとこういうものがある。
http://kotobank.jp/word/%E7%B4%94%E6%96%87%E5%AD%A6
井上氏は、鈴木氏や平野謙に預けた形で書いているが、1961年というのは頷けない。井上さんは鈴木氏の研究会に出ているから、義理でこう書いたのだと思う。だから、その後で「ハイブラウ/ロウブラウ」という語で修正している。では鈴木氏は、私が「ハイブラウ/ロウブラウ」と言えば納得するのであろうか。あほらしいとしか言いようがない。
なお年齢について言っていることについてだが、三好行雄は谷沢永一との論争で、年齢をこの場合は問題にする、と言っている。しかしそれは、せいぜい三十歳くらいの学者のことである。西洋諸国では、40代の大統領や総理が現れているのに、日本では40、50は鼻たれ小僧ということを、図らずも鈴木氏は裏書きしたことになる。
(付記)なお「神学部」について言えば、鈴木氏は東大を基準にするという。しかし明治期から政教分離であったのだから、国立の東大に、神学部だろうが仏教学部だろうが神道学部だろうが、宗教である限り別扱いが出来るはずはない。そこは、歴史のある大学が国立ではない(私立か、もっと複雑なもの)である西洋と違うのは当然である。
鈴木氏を見ていると、『水底の歌』の決定的な矛盾を益田勝実に指摘された時の梅原猛を思い出す。益田は、正しいにもかかわらず梅原の凄まじい剣幕に参って、祖先に向かって哀れな呼びかけを行った。今もなお梅原は、あの説が正しいと主張している。
申し訳ないが、ロイヤル・タイラーが優れた日本文学者だと、私は思っていない。オーストラリア国立大の名誉教授だが、優れた学者なら英国か米国にいるはずである(といってもアンドリュー・ゴードンやキャロル・グラックが優秀だとも思っていないが)。それに専門は謡曲であって近代ではない。
『「日本文学」の成立』を認めている日本文学の専門家は誰がいるのであろうか。なおパラダイムというのが、クーンのいうそれであるなら、クーンがあたかも、単一の真実は存在しないかのように記述したため批判を受け、表現を改めている。もっとも、自らこれがパラダイム・チェンジだと称した人は、あまり聞いたことがない。