世間というもの

 韓国の軍事独裁政権の朴正熙大統領が暗殺されたのは私が高校生の頃で、授業中に倫理社会の目良教師がそのことを伝え、私は隣席の左翼っぽい男と手をとりあって喜んだものだ。それより前に、朴夫人が射殺される事件があったが、その時、朴について「あの人もやり過ぎだ」という声があったのを、覚えている。
 伊丹十三の映画「マルサの女」で、大型脱税を摘発した際に、その組織と関係する政治家から、国税庁に圧力をかける電話がかかってきて、小林桂樹が対応する場面がある。小林は、この場合ちょっと悪質でございまして、とか、もう一部マスコミもかぎつけておりまして、先生のお名前に傷がついては、などと言ってかわすのだが、世間というものをよく描いていた。
 世間というものは「悪」を「悪」として指弾するという行為を嫌う。もちろん、世の中には本当に「やり過ぎ」というのはあるが、明らかに「悪」であっても、それを「やり過ぎ」という言い方で表現するのである。縁故やらコネやらで便宜をはかるとかそういった行為は「やり過ぎ」である時に初めて、ささやかに非難していいことになる。現実にはやり過ぎを遥かに超えた段階になって、世間はおずおずと「やり過ぎ」という語を発するのである。そこには、少しくらいの不正があるのはしょうがないのは分かっているけれどねえ、という世間の声がある。「やり過ぎ」という言葉を聞くと、私はいつもこのことを考える。

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 キネ旬ベストテンが発表になったので順々に観ている。「十三人の刺客」と「必死剣鳥刺し」を観たのだが、前者はまだリメイク版が出ていなくて間違えて古いほうを観た。まあそれなりに面白かったが、どちらも、暗君ものである。
 ここにまた別種の「江戸幻想」があるのだが、徳川中期以降、このレベルの暗君が存在したとはとうてい考えられない。「十三人の刺客」は実際にあったエピソードを元にしたフィクションだが(詳しくはウィキペディア参照)、将軍の弟が老中になるなどということはありえない。松平定信ですら、将軍の孫が老中になったのは異例のことであった。いずれの場合も、これほどの暗君であれば「主君押込め」の対象だし、まず家督相続自体ありえない。「バカ殿」というのは明治期に作られたフィクションで、継嗣はあまりバカだと廃嫡されて養子を迎える。老中というのは、譜代大名の中から、実務家として優れた者を選んでいるから、たとえ勝海舟の目から見て愚かに見えたとしても、一般的には能吏である。
 「十三人の刺客」の元ネタでも分かる通り、将軍の弟が子供を「無礼討ち」してもただでは済まないので、「斬り捨て御免」などというのも、明治期に広められたフィクションである。
 あと「必死剣」のほうで、江戸にいるご世子和泉守などという台詞があったが、家督を継いでいないのに官名を名乗るというのはないんではないか。