川西政明の迷走  

 ようやく駅前の書店に川西政明『新・日本文壇史』第2巻が入ったので立ち読みしてきた。確かに、参考文献には私の『里見とん伝』がなくて、私が参照しておいた大西貢の論文がずらりと並んでいる。
 さて本文を見ると、里見とんは本名を有島英夫という、とある。その後、すぐに山内家の養子になり山内英夫となった、と続くわけだが、出生と同時に山内家の養子になったのだから、出生届と養子縁組の間にいくらか「有島英夫」であった時期があったとしても、こんな記述は間違いである。
 それに、有島生馬が女中と関係をもったなどとあるが、あれは美術学校でモデルをしていたのを見出して壬生馬が有島家へ入れたのだからこういうのも変といえば変だが、それはまあいい。あと里見が関係した年上の女中のことを八重八重と書いているが、八重というのは作中の名である。私は仮に八重としてあるが、まあそれはいい。また里見が八重とのことを煙草屋の娘のことにして志賀直哉に話し、志賀が日記に「彼はなかなかに所謂太い男である」と書いた、とあるが、これは明治43年1月19日にまず話して、2月1日に実はと打ち明けた時に「太い男」=自分をうまく騙した、という意味で書いたのだから違う。
 つまり川西は、何とか私の里見伝を見なかったことにして、それとは違うことを書こうとしてあちこちで破綻を来しているのであるが、そうまでして参考文献に里見伝を入れたくないというその執念は何であろうか。

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以前、横光利一の長編はみな通俗だ、と書いたら、誰かに『家族会議』を勧められたので、読み始めたがこれまた通俗も通俗、文章は、京都弁を話す女の会話で運ばれて達者だが、何やら財閥の御曹司でやたら女にもてる主人公に、遺恨のある大阪のライヴァルを配し、周囲は美女が何人も出てきて株をめぐってごたごた争い、しまいには女の一人が大阪の男を刺し殺すという、いや実に馬鹿げた小説である。
 通俗がいけないというのではないが、出てくる女出てくる女みな美人でしかも主人公に惚れているので、阿呆らしくなってくる。新潮文庫解説の佐々木基一は、横光はここで職業を描こうとしたのだと書いているが、カネの世界を描けばいいというなら山崎豊子城山三郎やが現れた現在ではこれなど児戯に等しい。そして山崎も城山も、所詮は通俗なのである。むろん、いい通俗というのはあるわけだが、横光の場合それの出来そこないである。
 佐々木もまた、これが成功しているとは言い難いという口調だが、あんまりくだらないから、横光など戦後読まれなくなっていたのに、80年代頃から、妙に持ち上げる人が出てきた。吉本隆明が横光などと言っていたのは、『マス・イメージ論』を書いていたころだから、通俗を是認する自分の背後に横光を置きたかったのだろう。
 その当時横光が人気があったのは、あの難解な評論によるのである。しかし、意味があって難解なのではなくて、内容空疎で文章だけ難解なのである。若者というのは、そういうのが好きなので、明治の高山樗牛、岩野泡鳴、昭和の小林秀雄から吉本、柄谷と、カリスマになるのはそういう文人である。中村光夫江藤淳は、明瞭な文章を書いたからカリスマにはならなかったのだ。加藤周一の『羊の歌』に書いてある、一高生と横光の会話などというのも半ば意味不明で、『海辺の墓地』は風通しがいいですよ、って何であろうか。

 (小谷野敦