『福田恆存』について

 ミネルヴァ書房日本評伝選(いったい何が「選」なのか不明だが)の川久保剛『福田恆存』は、初の福田の伝記である。私は若いころ、西部さんとか呉智英さんが盛んに言うので、福田を偉いと思っていたが、最近は評価が下がっている。シェイクスピアの翻訳は硬くて、あとから出た小田島訳はもとより、同時代の中野好夫、三神勲などの訳に比べてさえ、悪い意味で「新劇」である。戯曲は今ではあまり読むにも上演するにも耐えない。国語国字問題については、福田が正しいのだが、福田を称揚する人びとが新字新かなで書いていたりするのだから、あほらしい。平和問題については、今ではまともな人はみな福田に賛同するだろう。文学論については、私は評価しえない。
 それにしても、伝記が出るのはいいことだ。かつて坪内祐三は、江藤淳が家系自慢をするのを批判して、神田の電気屋の息子だった福田が聞いたら何と思うか、と書いたが、恆存の父幸四郎は、ただの電気職ではなくて書家にしてけっこうな知識人であったことも分かった。恆存の名づけ親が石橋忍月であることも、以前年譜で見て、年譜を書いた人に問い合わせたことすらあったが、今回、だいたい周辺事情は分かったといえよう。
 それで、その福田伝にアマゾンレビューがついて、割と詳しい人のようなのだが、ほかのことはともかく、福田を知る人への取材がない、と書いているのが気になった。そもそも、福田恆存ほどの人になると、取材して話すようなことは、自分で書いているのが普通である。さらに、遺族とかそういう人は、取材を断ることも多いし、一番困るのが、取材した結果、面白い話をしておいて、「これは書かないでください」と言われたり、ないしは既知のことでも、「あれは書かないでください」と言われることである。だから私は、遺族への取材は最低限にしている。
 川久保氏には、ほかのことはともかく、「足を使って書く」と偉いかのような思い込みは不要である、と言っておきたい。
小谷野敦

福田恆存―人間は弱い (ミネルヴァ日本評伝選)

福田恆存―人間は弱い (ミネルヴァ日本評伝選)