純文学作家はなぜ犯罪小説を書くか

 何かと話題の吉田修一『悪人』を読んだ。私は吉田の「パーク・ライフ」をまったく評価していないし、『パレード』もどうということはなかった。前者は芥川賞、後者は山本周五郎賞受賞作で、『悪人』はある意味最高峰の一つである大佛次郎賞、そして毎日出版文化賞を受賞している。大佛賞は、学者であれば60過ぎの大物でなければ貰えないものである。といっても吉田は受賞時41で、同年で受賞した学者もいる。
 『悪人』は、ほぼ予想どおり、通俗小説であった。推理小説というより犯罪小説で、人情話でもある。しかしこのところ、純文学作家が、宮部みゆきばりの犯罪小説を書くというのがはやっているのは、純文学の行き詰まりの一端を示していると言えよう。実際これを、作者名を隠して読ませたら、多くの人が宮部と答えるのではないかとすら思う。
 長編推理小説にはどれでも一つはミスがあると言われるが、これの場合、ほとんど現代版『砂の器』で、殺人の動機が弱すぎる。ではハンセン病に該当する主題は何かといえば、階層である。この世界では、西南学院大学を思わせる三流大学の学生が、最も社会的地位が高い。いわばDQNの世界を描いたものである。私はふと、切通理作とのトークショーで、切通が大学時代、土下座して、セックスさせてくれと頼んだ、と言うのを聞いて唖然としたのを思い出した。
 この大学生が最低な奴なのだが、こういう最低な奴というのはいて、ただし殺人事件に巻き込まれたりしないから、最低のままである。
 あと、そういう階層とは関係なしに、出会い系で会った異性とセックスする人としない人とで、見方も違ってくるだろうが、作者も、まじめな出会い系つまりお見合いサイトというものもあることを考慮してか、売春に設定したりと苦労しているが、問題はぼやけている。
 なんで犯罪小説が純文学扱いされるかというと、『罪と罰』があるからだ。大岡昇平ですら犯罪小説を書いたのだからなあ。まあ山本周五郎賞作家なのだから、通俗小説ということでいいだろう。そうして見ると『ヘヴン』もやっぱり通俗かなあと思えてくる。私小説という純文学の精髄を捨てると、こういうことになるわけで、それはまあ、売れたほうがいいから、仕方ないですよねと。ちなみに私は『罪と罰』も通俗小説だと思っている。
カニさん、谷崎の大正期の短編はかなり下らないですよ。谷崎は昭和に入ってからです。