旅行と実証

 作家が、温泉地へ行ったり、ホテルに缶詰めになったりしてものを書くなどと聞くと、ふーん資料なしで書ける職業はいいなあ、などと思う。作家でもそういう人はいるが、資料に基づいて書く学者とか評論家というのは、基本的に家に張りついていなければならない。さらに厄介なのは、使い終わった資料で、若いうちはいいけれど年を重ねてくると、これを全部とっておくほどの邸宅に住んでいるのでなければ、捨てるしかない。大笹吉雄さんに昔質問した時、資料は終ったら捨ててしまうと言っていたが、そりゃああの浩瀚な『現代日本演劇史』の資料を全部とっておくほど、大笹さんが裕福であったはずがないから仕方がなく、読者から質問されても答えられない。書いたものについて答えられないなんて無責任だと言われたって、資料をとっておくほど裕福ではないのだからしょうがない。「整理法」などというのは、邸宅を持っている人にしか意味のないもので、その整理したものを置いておく場所はどこにあるんですかと訊きたくなる。これは若い人の場合も、20年もやっていたらどれほど資料がたまるか、という実感がないから割と分からない。しまいには、その資料を整理する時間というのはどこにあるのですか、ということにすらなってくる。
 呉智英さんが、カードの作り方などというのを書いているが、実に驚いたのは、いざ書き出してみると、思いもかけなかった個所を引用する必要が出てくるということで、PDFにしろと言ったって一冊丸ごとするのにどれほど手間がかかるか。
 その割に、学者で、むやみと外国へ行ったり学会で飛びまわったりしている人がいるが、そういう人は、既に業績を挙げた老大家で、昔書いたことを繰り返すようなエッセイを書いているだけか、そうでなければただエッセイを書いているだけか、ただ耳学問ばかり増えていくだけか、もしそれでも業績の上がる人がいたらそれはとんでもない体力の持ち主であるか、実家が裕福とか勤務先の予算が豊富で秘書を雇っているか、頭のいい愛人が何人もいて助手をしているか、のどれかである。

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ファミリーマートに「お買い物の中の駐輪は結構ですがそれ以外はご遠慮ください」というような張り紙があった。冒頭部分はそのまま。「お買い物の中の」…? これは「おかいものちゅうの」のつもりなのか「物の」で「もの」と読むつもりなのか、はたまた漱石の「硝子戸の中」が「がらすどのうち」であるように「おかいもののうちの」…ってそれも変だな。
 しかしコンビニの中の音楽やら宣伝放送のうるささは何とかしてほしい。セイジョーとかいう薬屋もうるさい。薬屋は病気で弱っている人も来るんだから静かにしてほしい。
 (小谷野敦